足尾町(あしおまち)は、かつて栃木県上都賀郡にあった町。
足尾銅山の鉱山町として知られ、全盛時の1916年(大正5年)には、栃木県において宇都宮市に次ぐ38,428人の人口を有していた。1973年(昭和48年)の足尾銅山閉山後は過疎化が進行し、2006年(平成18年)3月1日時点では最盛期の10%にも満たない3,220人となっていた。2006年(平成18年)3月20日、(旧)日光市などと合併して(新)日光市が発足した。
栃木県の西端部に位置し、利根川の支流である渡良瀬川の上流部にあった[1]。標高は約600メートルから2150メートルであり、面積の約95%が山地だった[1]。日光国立公園に含まれていた[1]。
群馬県との県境にあった[1]。
1978年(昭和53年)時点で足尾町は以下の地区に分かれていた。
この地域に人類が住み始めたのは石器時代であるとされ、石器や縄文式土器などが出土している[2]。
大化元年(645年)には下野国安蘇郡足尾郷となり、延暦9年(790年)には足尾郷が中禅寺の神領となった[3]。足尾郷の鎮守である磐裂神社が建てられたのは大同3年(808年)とされる[3]。奈良時代から平安時代には僧が足尾を修業地とした[2]。
室町時代には武士が足尾に移り住んでこの地域を支配し、農業集落も形成された[2]。天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原征伐を行った際、日光山の衆徒は北条氏に加担したため秀吉の怒りを買い、その所領の大部分を没収されたが、足尾村などわずかな地域のみが日光山領として残された[2]。
江戸時代のこの地域は日光神領の下野国安蘇郡足尾村だったが、慶長15年(1610年)に足尾銅山が発見されたことで幕府領となり、江戸幕府の御用銅を製造し続けた[2]。江戸時代中期には、多数の商店が集まって「足尾千軒」と呼ばれるほど繁栄した[4]。足尾銅山が産出した御用銅は江戸城や日光東照宮の銅瓦などにも用いられている[2]。
明治維新後の1877年(明治10年)には足尾銅山が古河市兵衛の経営となり、大鉱脈の発見や生産技術の近代化などによって、1890年代には日本で産出する銅の40%を占める日本一の銅山となった[4]。1893年(明治25年)には私立の古河足尾銅山尋常高等小学校(後の足尾町立本山小学校)が開校しているが、私立小学校は当時としては珍しかった。
1900年(明治33年)頃には日本初の公害事件とされる足尾鉱毒事件が発生し、田中正造が奔走して問題提起がなされた[4]。1902年(明治35年)には鉱毒問題によって松木集落(松木村)が廃村となっている。1912年(大正元年)には国鉄足尾線(現・わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線)が足尾町に通じた。1916年(大正5年)の人口は38,428人であり、宇都宮市に次いで栃木県第2位だった[4]。
1902年(明治35年)9月28日に関東地方を通過した台風は大きな被害を出したが、特に足尾町など栃木県で甚大な被害を出したため、後世には足尾台風または壬寅歳暴風雨と呼ばれるようになった[5][6]。
1973年(昭和48年)2月28日には足尾銅山が閉山した[4]。1970年(昭和45年)の人口は11,202人だったが[1]、閉山の1973年(昭和48年)には1万人を下回り[7]、1975年(昭和50年)には6,948人と急減した[1]。1978年(昭和53年)3月30日、足尾町と日光市街地を結ぶ国道122号の日足トンネルが開通した。
一般国道
県道(主要地方道)
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