諫早 一学(いさはや いちがく、1827年10月21日〈文政10年9月1日〉 - 1895年〈明治28年〉12月19日[1])は、江戸時代後期の武士。肥前国佐賀藩の家老。諫早鍋島家(諫早氏)16代当主。後に貴族院議員。
12代諫早邑主・諫早茂洪の四男として誕生。室は鍋島直与長女・婉(明照院)。
1862年(文久2年)、甥で15代邑主・諫早武春が16歳で没したため邑主となった。代々邑主は佐賀藩家老にあたり、尊王運動に加わった。明治維新後、士族の反乱として佐賀の乱、西南戦争が勃発するが、旧佐賀藩士を率いて政府軍を援護する働きをした。1884年(明治17年)、諫早銀行設立に中心人物として携わる[2]。1890年(明治23年)9月29日、貴族院多額納税者議員となり[3]、1892年(明治25年)10月7日に辞職した[4]。
1895年(明治28年)、死去。享年69。士族の反乱を抑えた功績により、養嗣子・家崇(諫早茂孫の長男)は1897年(明治30年)に男爵に叙爵された。
分家・支流