藤井 麻輝 (ふじい まき、1965年 8月17日 - )は、日本 の音楽家 。長野県 飯山市 出身。SUILEN 、SCHAFT 、minus(-) のメンバー。
経歴
SOFT BALLET 以前には、VOLAJU(ヴォラージュ)等のインディーズ バンド に参加。
1987年 にSOFT BALLET結成。1989年 、メジャー・デビュー 。1991年 、BUCK-TICK ・今井寿 とのユニットSCHAFT を結成。1994年 、SCHAFTを本格始動。1995年 、SOFT BALLET活動終了。その後、ソロユニット・She-Shell 、バンドepidemicなど、他アーティストのプロデュースワーク等で活動。再結成SOFT BALLET(2002年 ~2003年 )を経て、芍薬 とのユニットSUILEN として活動。2011年から音楽活動を休止(理由は後述)。2014年、森岡賢 とユニット「minus(-)」(マイナス)を結成、音楽活動を再開。2015年、約21年ぶりにSCHAFTを本格再始動、2016年に新譜リリースとツアーを行う。6月3日に森岡賢が急逝したことにより、夏以降のminus(-)におけるメインボーカルを自身が担う(詳細後述)。2017年、minus(-)と、YOW-ROW(GARI )と藤井のユニットJugendgedenkenの対バン という形で2016年に中止になったツアー先を回る。自身のTwitter では、夏以降にもツアーがあると述べている。
人物
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高校時代、冨田勲 の『展覧会の絵 』に感銘を受け、音楽に目覚める。スロッビング・グリッスル などのようなインダストリアル やノイズミュージック に傾倒しており(SPK のボックス・セット の国内盤において、詳細な解説を執筆したこともある)、SOFT BALLETにおいてもヘヴィかつノイジーな側面を担った。1990年、本人の趣向から離れた構成に挑戦、3rdシングル 『Escape-Rebuild』をストレートなポップソングとしてリリースするも、あまり商業的反響を得ることがなく、以降の作風は、そうしたポップさを抑え、森岡とは対照的な音楽性を志向するようになる。
父親が医師であり、本人も医大を目指し東京の予備校に通っていたが、SOFT BALLETの結成に伴い医師への道を断念している。なおSOFT BALLET活動時は実家の病院にポスターが貼ってあったと藤井は証言している。 [要出典 ] 高校生の頃は化粧をして学校に登校。授業が始まる前にちゃんと化粧を落としていた[ 1] 。雑誌JUNE のモデル経験がある。
本人曰く「ライヴ嫌い」である。SOFT BALLET時代はステージを縦横無尽に動き回る森岡とは対照的に、ほぼ直立不動の状態だった。「ステージ用の打ち込み を終えた時点で、自分の中でライブは終わる」とのこと。また、かつてはライヴで地方に行くことについても抵抗があったらしく、これもライヴ嫌いを募らせる原因になっていた。更に同時代は生活習慣がルーズな森岡への説教役となり、あまりの遅刻の多さに激怒し、手が出ることもしばしばあった。自他共に厳しい性格。ライブ会場の控室でスタッフを蹴ったのを今井寿 と樋口豊 に目撃されたことがある[ 2] 。
ROCKIN'ON JAPAN のインタビューで「ゴムを噛む」「歯医者で詰めた綿の匂いを嗅ぐ」などと発言、このインパクトによるパブリックイメージ を本人は後に後悔している[要出典 ] 。同雑誌の投稿欄に「本人だ!」 と投稿し採用。編集部は当時の所属事務所を通し、確認した上で掲載している。
元妻であるタレントの濱田マリ とのなれそめは、藤井が彼女の大ファンで、雑誌記者のコネを使って対談を実現させた(ROCKIN'ON JAPAN誌上およびラジオ番組「遠藤遼一 Radio Trancy」)ことから。その後「失恋直後の隙をつかれて」(濱田談)親密な関係となり、藤井の「ストーカー同然」(濱田談) [要出典 ] の接触も実り、1996年に結婚。1999年には長女をもうけるも2005年に離婚。
2011年に起こった東日本大震災 を受け「今やるべきなのは音楽ではない。」と考え、その後は建築関係の仕事に就いていた(当初は下働きからのスタートだったが、最終的にはそれなりの地位に出世していたという)。その期間は関係者からの連絡を一切絶っており、死亡説、失踪説も流れた。 2013年に会社を退職。その後、音楽と人 の編集長である金光裕史の働きかけもあり、森岡賢とユニット「minus(-)」を結成する運びとなる。minus(-)のライヴでは、メンバーそれぞれの曲については作曲者がボーカルを取る形態をとっていた(minus(-)項も参照のこと)が、2016年6月の森岡の急逝により実質上ソロプロジェクトとなったため、J (LUNA SEA )主催のイベント以降は森岡の曲についてもボーカルを担当している。
バンド・ユニット・名義歴
TEMPLE OF CULT
VOLAJU
SOFT BALLET (1986-1995, 2002-2003)
SCHAFT (1991-1994, 1999, 2016 今井寿 とのユニット)
MAKI FUJII ASSEMBLED(1996 ソロプロジェクト)
She-Shell (1996-2001 渡真利愛、MIZUとのユニット)
SUILEN (2001, 2004-2010 芍薬 とのユニット)
D.N.P.A.(2005-2006 YOW-ROW&TORUxxx とのユニット。ライブ活動のみ)
Jugendgedenken(2016-2017 YOW-ROWとのユニット。ライブ活動のみ)
minus(-) (2004-2021 森岡賢とのユニット、森岡死去後はソロプロジェクト)
作品
参加作品
プロデュース
epidemic
シングル「奇蹟の城」(2000年2月17日、ポニーキャニオン、PCCA-1409)
アルバム「Eocytes」(2000年6月21日、ポニーキャニオン、PCCA-80001)
Lillies and Remains
アルバム「Romanticism」(2014年11月12日、Fifty One Records、FIFO-0030)
脚注
出典
^ 市川哲史、2006、『私も「ヴィジュアル系」だった頃。』 p.126-127
^ 「音楽と人 」1997年3月号 p.52
外部リンク