繁里 栄(しげり さかえ[1]、1916年 - 1960年12月8日[1])は、大分県出身のプロ野球選手。ポジションは投手。
来歴・人物
佐伯中から明治大学に進学するも、2年で中退。1937年途中に同郷で明大の先輩である赤嶺昌志がスカウトを務める名古屋軍に入団。シュート、カーブを武器とした。
この年の秋季シーズンは13試合に登板して防御率6.11[2]と散々な成績に終わり、翌1938年の春季・秋季も目立った活躍はみられなかった。
1939年は主力投手の故障もあり、14勝18敗、防御率2.31とエース級の活躍をみせるが、重度の腰痛のためこの年限りで退団する。
戦後は母校の佐伯鶴城高でコーチをつとめた。
詳細情報
年度別投手成績
年
度 |
球
団 |
登
板 |
先
発 |
完
投 |
完
封 |
無 四 球 |
勝
利 |
敗
戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝
率 |
打
者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬
遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴
投 |
ボ 丨 ク |
失
点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P
|
1937秋
|
名古屋
|
13 |
5 |
3 |
0 |
0 |
1 |
8 |
-- |
-- |
.111 |
250 |
52.1 |
57 |
4 |
45 |
-- |
2 |
19 |
3 |
0 |
40 |
36 |
6.11 |
1.95
|
1938春
|
9 |
5 |
1 |
0 |
0 |
1 |
3 |
-- |
-- |
.250 |
155 |
31.1 |
34 |
0 |
27 |
-- |
2 |
9 |
2 |
0 |
24 |
18 |
5.06 |
1.95
|
1938秋
|
8 |
3 |
1 |
0 |
0 |
1 |
3 |
-- |
-- |
.250 |
164 |
34.1 |
34 |
0 |
21 |
-- |
0 |
11 |
2 |
0 |
20 |
15 |
3.86 |
1.60
|
1939
|
40 |
33 |
22 |
3 |
0 |
14 |
18 |
-- |
-- |
.438 |
1107 |
260.1 |
232 |
5 |
125 |
-- |
2 |
77 |
3 |
0 |
102 |
67 |
2.31 |
1.37
|
通算:3年
|
70 |
46 |
27 |
3 |
0 |
17 |
32 |
-- |
-- |
.347 |
1676 |
378.1 |
357 |
9 |
218 |
-- |
6 |
116 |
10 |
0 |
186 |
136 |
3.23 |
1.52
|
記録
- 1日2完投勝利
1939年4月23日の名古屋対南海戦ダブルヘッダー第1試合に先発した繁里はこの試合を1対0で完投勝利。続く第2試合にも先発。7回降雨コールドで完投して勝利している。1日2勝した投手は数人いるが、2勝を完投で挙げたのは繁里のみ。
なお、前日のイーグルス戦にも先発している(この時は5回で降板)。
背番号
- 24 (1937年)
- 14 (1938 - 1939年)
脚注
- ^ a b 『昇竜の軌跡 中日ドラゴンズ70年史』 ベースボール・マガジン社、2005年、139頁。
- ^ このシーズンの防御率ワーストは重松通雄(阪急)の7.20。なお、1シーズン制でのワーストは斉藤和巳(ソフトバンク)が2004年に記録した6.26。
参考文献
関連項目
外部リンク