築地電軌
路線概略図
市買収(1937年3月)直前の路線
名古屋市電 :築港線
堀川口駅
築地電車前電停
築港電停
0.0
築地電停
0.2
築地学校前電停
中川運河
0.9
中川堤防電停
1.2
築三町電停
1.5
荒子川東電停
荒子川
1.7
荒子川電停
2.1
本社前電停
2.5
稲永電停
3.1
大宮司電停
3.7
西ノ割電停
4.2
多加良浦電停
4.7
弁天裏電停
5.2
中学前電停
6.0
明徳橋電停
7.3
下之一色電停
←下之一色電車軌道
築地電軌株式会社 (築地電軌株式會社、つきじでんき)は、かつて名古屋市 南西部で路面電車 やバス の運営を行っていた企業 (株式会社 )である。略称は「築電」。
概要
1898年 (明治 41年)に開業した名古屋電気鉄道 を、1922年 (大正 11年)に市営化し名古屋市電 は発足した。市電を運営する名古屋市電気局(名古屋市交通局 の前身)は1930年 (昭和 5年)に市営バス の運営も開始し、1935年 (昭和10年)から1938年 (昭和15年)にかけて名古屋市内の路面電車・バスの買収・統合を進めていった。この築地電軌も買収・統合の一環として市に買収された事業者の一つである。
築地電軌は、電気軌道(路面電車)の運営、信託 事業、海水浴場 ・遊園地 ・娯楽施設の運営、土地 ・建物 の売買・賃借などを目的として1916年 (大正5年)に設立された。1917年 (大正6年)には中核事業である電気軌道を、名古屋市電に接続する築地から稲永新田の間に敷設した。その後電気軌道は延伸され、1926年 (大正15年)に下之一色電車軌道 に接続する下之一色まで到達し、名古屋南部に循環線が形成された。また、開始時期は不明だがバス の運営も行っていた。
運営していた軌道線は大半が専用軌道 で、田園地帯をのんびりと走っていたという。沿線の人口が少ないため利用客が少なく業績は振るわず、主に臨港地帯の工場への通勤者や漁師 が利用客であったが、夏になると沿線にあった多加良浦海水浴場へ向かう海水浴 客で賑わった。また、庄内川 付近で採取された砂利 を市内へ輸送することもあったという。
1937年 (昭和12年)3月、築地電軌の軌道・バス事業は名古屋市に買収され、名古屋市電気局(後の名古屋市交通局 )に移管された。バス路線は市営バスの路線網に組み込まれ、軌道線は名古屋市電 の路線網に組み込まれた。市営化後築地線 と命名された軌道線は、旧下之一色電車軌道線との連絡が図られたり、築地口(旧・築地) - 稲永町(旧・稲永)間が複線化されたりするなど設備の改善がなされた。そして、稲永町 - 下之一色間は1969年 (昭和44年)2月19日 まで、築地口 - 稲永町間は1971年 (昭和46年)11月30日 まで運行が続けられた。
年表
1914年 (大正3年)10月21日 - 南区西築地 - 下之一色町間の軌道敷設特許 を、名古屋電気鉄道が取得。
1916年(大正5年)3月21日 - 名古屋電気鉄道から特許を譲受け、築地電軌株式会社設立。
1917年(大正6年)6月16日 - 築地 - 稲永新田間 (2.5km) 開業。
1918年 (大正7年)3月28日 - 稲永新田 - 下之一色町間の特許が失効(後に同区間の特許を再取得)。
1925年 (大正14年)7月1日 - 稲永新田 - 明徳橋間 (3.6km) 開業。
1926年(大正15年)5月31日 - 明徳橋 - 下之一色間 (1.2km) 開業。
1937年(昭和12年)3月1日 - 軌道事業・バス事業を名古屋市に譲渡[ 2] 。会社は解散 。
鉄道事業
保有路線
路線データ
1935年12月末現在
区間:築地停留場 - 下之一色停留場間 (7.28 km )
軌間 :1,067 mm
単線 区間:全線
電化区間:全線(直流 600 V)
停留場 数:15か所
停留場一覧
築地 - 築地学校前 - 中川堤防 - 築三町 - 荒子川東 - 荒子川 - 本社前 - 稲永 - 大宮司 - 西ノ割 - 多加良浦 - 弁天裏 - 中学前 - 明徳橋 - 下之一色
接続路線
輸送・収支実績
年度
乗客(人)
貨物量(トン)
営業収入(円)
営業費(円)
益金(円)
その他益金(円)
その他損金(円)
支払利子(円)
1917
174,060
8,904
6,134
2,770
1918
374,472
14,842
12,365
2,477
利子3,750
1919
517,456
19,736
13,361
6,375
1920
550,270
25,383
17,537
7,846
1921
499,128
26,353
19,245
7,108
1922
515,572
27,703
21,360
6,343
1923
524,486
29,764
20,927
8,837
償却金210
382
1924
588,098
36,409
25,863
10,546
1925
809,933
47,204
30,767
16,437
1926
1,194,152
70,772
45,097
25,675
1927
1,312,645
71,579
49,936
21,643
2,700
1928
1,390,684
72,112
45,771
26,341
6,668
1929
1,429,463
25,448
81,346
50,456
30,890
遊園地2,614
7,406
1930
1,367,016
43,521
78,659
54,542
24,117
遊園地2,646
9,252
1931
1,289,824
7,376
61,290
50,210
11,080
10,226
1932
1,182,185
3,720
58,578
52,187
6,391
10,124
1933
1,227,459
53,884
48,256
5,628
自動車5,813
雑損1,000
10,405
1934
1,138,621
49,210
45,527
3,683
自動車12,121
雑損償却金7,071
8,342
1935
1,087,206
47,231
43,332
3,899
自動車遊園地11,241
7,161
1936
1,090,059
46,963
40,754
6,209
自動車7,790
償却金6,800
6,757
1937
271,595
11,641
14,321
▲ 2,680
自動車遊園地668
1,641
鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版
保有車両
市営化時、電車 11両と貨車 10両が名古屋市電気局に移管された。
1-3
開業時の車両で名古屋電気鉄道 から譲り受けた名電1号形。定員26人。移管後、1938年 (昭和13年)4月18日 廃車届。
4-7
自社発注の丸屋根型車両。定員40人。移管後、車両番号 を12-15に改番。
8-11
元・名古屋市電SSA形 (名古屋電気鉄道時代の車両)。定員34人。移管後、8号は1937年 (昭和12年)9月17日 廃車届。
101-110
貨車。荷重4t。移管後、1937年(昭和12年)に廃車。
出典:和久田康雄『日本の市内電車 1895-1945』54-55頁、58-59頁。
バス事業
築地電軌のバスは、築地口 - 荒子川 - 錦町間と、築地口 - 荒子川 - 飛行場間の5.0kmで運行されていた。市営化によって市に移管された車両は4台であった。沿線には錦町遊郭 や飛行場 (名古屋飛行場)があり、運輸成績は良好であった。
未成線・計画路線
築地電軌には、築地 - 下之一色間の営業路線のほか、いくつかの未完成路線(未成線 )や計画路線が存在する。なお、営業路線の稲永新田 - 下之一色間は特許が失効していた時期があり、その期間は未成線であった。
小碓町 - 千年町
南区(現・港区 )小碓町の明徳橋付近から東海通 を東へ進み、堀川 の西岸千年町字裏畑に至る、6.0 km の区間である。1920年 (大正9年)10月4日 、1921年 (大正10年)4月18日 、同年10月1日 、1924年 (大正13年)3月20日 の4回にわたって特許が申請されたが、名古屋市電の敷設計画と競合するため1925年5月29日 に不許可となった。
下之一色 - 東枇杷島間ほか
下之一色から庄内川東岸を北上し岩塚町・中村町を経て名古屋鉄道 東枇杷島駅 に至る 8.6 km の路線と、岩塚町で分岐して東へ向かい烏森町を通り、国有鉄道 関西本線 や東海道本線 ・中央本線 と交差、西日置町で名古屋市電水主町停留場に連絡する 4.8 km の路線、中村町から分岐して東進し、則武町を経て菊井町で名古屋市電菊井町停留場に連絡する 2.9 km の路線、合計3路線が1924年3月20日 に申請された。1925年5月29日に不許可となった。
下之一色町 - 熱田新田間
下之一色町字松蔭で既設線から分岐して東へ進み、南区(現・中川区 )中野新町を経て熱田新田に至る 5.3 km の路線で、1926年12月22日 に特許が申請された。1928年 (昭和3年)4月18日 に中野新町までの 2.7 km に変更した上で再度申請し、変更区間の特許が1929年 (昭和4年)2月6日 に許可された。だが、着工できずにいたため1933年 (昭和8年)3月14日 に特許は失効した。同年3月29日 に下之一色町 - 中野新町間の特許を再度したが、7月11日 に不許可となった。
下之一色 - 八田町間ほか
下之一色から八田町へ向かう 3.8 km の路線と、稲永新田付近の臨港地帯を通る3路線 5.8 km の敷設特許を1928年9月17日 に申請した。八田町では関西本線八田駅と連絡する計画であった。1933年7月11日に不許可となる。
脚注
^ a b c d e f 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和10年4月1日現在』 (国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 2月27日許可「軌道譲渡」『官報』1937年3月4日 (国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『電気事業要覧. 第19回 昭和3年3月』 (国立国会図書館デジタルコレクション)
参考文献
名古屋南部史刊行会編集 『名古屋南部史』 名古屋南部史刊行会、1952年
名古屋市交通局編 『市営五十年史』 名古屋市交通局、1972年
なごや市電整備史編集委員会編 『なごや市電整備史』 路面電車全廃記念事業委員会、1974年
名古屋市交通局編 『名古屋を走って77年 市電写真集』 名古屋市交通局、1974年
鈴木兵庫編集 『名古屋市電買収以前の各私鉄私バスの乗車券』 鈴木兵庫、1988年
原口隆行著 『日本の路面電車 3』 JTB、2000年
井戸田弘著 『東海地方の鉄道敷設史 2』 井戸田弘、2006年
今尾恵介(監修) 『日本鉄道旅行地図帳 』 7号(東海)、新潮社 、2008年。ISBN 978-4-10-790025-8 。
和久田康雄『日本の市内電車 1895-1945 』成山堂書店、2009年。ISBN 978-4425961511 。
外部リンク