箕作 佳吉(みつくり かきち、1858年1月15日(安政4年12月1日)- 1909年(明治42年)9月16日)は明治時代の日本の動物学者。理学博士。
略歴
津山藩医・箕作秋坪の三男。菊池大麓は兄、箕作元八は弟。江戸津山藩邸で生まれ、1870年(明治3年)慶應義塾に入学、1872年(明治5年)大学南校に学んだのち1873年(明治6年)に渡米。ハートフォード中学からレンセラー工科大学で土木工学を学び、のちイェール大学、ジョンズ・ホプキンズ大学に転じ動物学を学ぶ。その後英国・ケンブリッジ大学に留学。
帰国後東京帝国大学理科大学で日本人として最初の動物学の教授となり、1888年(明治21年)理学博士、その後東京帝国大学理科大学長を務めた。ほか、1883年(明治16年)5月から母校・慶應義塾にて後藤牧太、中村貞吉、印東玄得らと共に理学講習会を教授した。動物分類学、動物発生学を専攻。カキ養殖や真珠養殖に助言するなど水産事業にも貢献した。
1907年(明治40年)頃より腎臓炎・脳溢血を患って静養していたが、次第に悪化して精神障害も発症した後、1909年(明治42年)に死去した[1]。
業績
献名された生物
箕作佳吉は日本の動物学の草創期の指導者であったため、佳吉に献名された和名や学名を持つ生物がいくつか知られる。
- 学名に献名された生物
- Coeloplana mitsukurii Abbott (クラゲムシの一種)
- Mitsukurina owstoni(ミツクリザメ属)
- Scirpus mitsukurianus (マツカサススキ)
- 和名に献名された生物
- ミツクリエビ
- ミツクリザメ
- ミツクリエナガチョウチンアンコウ
一族
- 父・箕作秋坪 ‐ 儒者・菊池陶愛の子
- 母・つね ‐ 箕作阮甫の三女。 甥に箕作麟祥(箕作省吾の子)、呉文聰、呉秀三
- 長兄・箕作奎吾 - 夭折。元幕府派遣英国留学生
- 二兄・菊地大麓 - 男爵、東京帝国大学総長。
- 弟・箕作元八
- 異母妹・直子 ‐ 人類学者・坪井正五郎の妻
- 妻・やす ‐ 五島孝継(岐阜県士族、内務省准奏仕御用掛[2])の娘。5男2女をもうけたが[3]、うち長男・阮一、三男・順三、長女・秋子、四男・矩雄の3男1女は夭折[3]。
- 次男・箕作良次 (1885-?) ‐ 実業家。東京帝国大学法科大学政治学科卒業後日本郵船カルカッタ支店長をへて、昭和スレート專務取締役、冨士スレート取締役、コンマーシヤル・インデリセンス・ビユーロー專務理事、六洲商会主[4]
- 五男・箕作新六 (1893-1953) ‐ 理学博士、東北大学教授。満鉄撫順化学研究所所長なども務めた[5]。妻は穂積八束の三女。
- 次女・吉阪花子 (1897-?) ‐ 吉阪俊蔵の妻[3]。子に建築家の吉阪隆正
栄典・授章・授賞
- 位階
- 勲章等
著作
- 「博物学」(大隈重信撰、副島八十六編修 『開国五十年史 上巻』 開国五十年史発行所、1907年12月)
- 大隈重信撰、副島八十六編修 『開国五十年史 上巻』 原書房〈明治百年史叢書〉、1970年11月
- 著書
脚注
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)290-291頁
- ^ 五島孝継皇居三の丸尚蔵館
- ^ a b c 『動物学者 箕作佳吉とその時代』、355頁。
- ^ 箕作良次『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
- ^ 『日本ゴム工業史 第2巻』東洋経済新報社 1969 p177
- ^ 『官報』第907号「賞勲叙任」1886年7月10日。
- ^ 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
- ^ 『官報』第5312号「叙任及辞令」1901年3月22日。
- ^ a b 『官報』第7872号、1909年9月18日、315頁。
- ^ 『官報』第3451号「叙任及辞令」1894年12月27日。
- ^ 『官報』第5243号「叙任及辞令」1900年12月21日。
参考文献
関連文献
関連項目
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外部リンク