猪瀬敏弘

いのせとしひろ

猪瀬敏弘
生誕 1924年(大正13年)1月11日
死没 2007年(平成19年)8月12日
国籍 日本
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猪瀬 敏弘(いのせ としひろ、1924年〈大正13年〉1月11日 - 2007年〈平成19年〉8月12日)は、日本実業家中田大三とともに神戸電鉄グループの発展に尽力した。

来歴・人物

生誕

1924年(大正13年)1月11日福島県生まれ[1]1944年(昭和19年)高知市立高知商業高等学校を卒業[2]京都帝国大学へ入学するも中退[1]1947年(昭和22年)神有三木電気鉄道(現:神戸電鉄)に入社する[1][2]1964年(昭和39年)6月秘書室長を経て、1970年(昭和45年)6月神鉄観光の取締役に転じ[2]1976年(昭和51年)6月より神戸電鉄の経理部長に就任、1979年(昭和54年)からは取締役に就任した[1][2]

代表取締役常務へ就任

1985年(昭和60年)6月より神戸電鉄の代表取締役常務に就任[1]1961年(昭和36年)に阪急電鉄と事業提携して以降、神戸電鉄初の生え抜き代表取締役であった(以後現在に至るまでも生え抜きの代表取締役は誕生していない)。

神鉄グループの総帥・中田大三代表取締役社長(当時)とともに、新線建設・輸送力増強・北神急行プロジェクトなど神戸電鉄の黄金時代を築き上げた。

特に、鉄道・バス・タクシーをはじめとした交通事業のみならず、開発事業や住宅産業を主軸とした不動産業建設業ホテル旅行業などのレジャー産業飲食業スーパーマーケットなどの流通業といったいわゆるグループ多角経営をはじめ、他社との提携・共同出資によるスポーツ産業教育産業金融業など多岐にわたる事業展開は、神鉄複合文化産業構想神鉄総合文化産業構想とも)と称され、飛躍的なグループの拡大を図った[3]

1988年(昭和63年)3月代表取締役常務の座を上仲孝明に譲って取締役に退き、これも1989年(平成元年)6月に退任した[3]

備考

  • 1976年(昭和51年)に発表された「神戸電鉄社歌」の作詞を担当している。
  • 関連会社の役員も務めていた。

脚注

  1. ^ a b c d e 『海外旅行業便覧 1988』航空新聞社、1987年11月。 
  2. ^ a b c d 『日本企業要覧 1979年度版』食糧経済新聞社、1979年9月。 
  3. ^ a b 『最近10年の歩み』神戸電鉄株式会社、1998年。