滋賀海軍航空隊(しがかいぐんこうくうたい)は、大日本帝国海軍の部隊・教育機関の一つ[1]。一挙に増加した海軍飛行予科練習生甲飛第13・14期の生徒を教育するため太平洋戦争中に新設された予科練教育航空隊であったが最終的には甲飛第16期生まで入隊した[2]。滋賀県滋賀郡下阪本村本町(現在の滋賀県大津市滋賀里町)に所在した[3]。
滋賀海軍航空隊は日本海軍航空隊の中で航空専科に特化し既に下士官教育を受けた唯一の航空隊であり将来の海軍省、予科練生の教育官になるエリートを輩出する為の教養実務訓練を身に付ける目的であったがマリアナ沖海戦の大敗北における[4]戦局の悪化により海軍士官及びパイロット養成機関が短縮、 目的変更により最先端兵器を扱う特別攻撃隊に変わった。 先端兵器の使用で戦地に赴いた戦死者が約8割に昇った[2]。戦死者が際立って多いのは昭和20年6月である。隊員達の多くは「滋賀海軍航空隊」を愛称で「滋賀空(しがくう)」と称した[2]。
極秘基地であったために資料は極めて少ない。
日中戦争から始まり太平洋戦争の開戦と同時に海軍航空隊は真珠湾攻撃で大きな戦果を挙げ、時勢は其れまでの艦隊決戦から一挙に航空機による決戦に傾いてきた。 戦線の拡大とともに、航空隊要員の大増強が要求され、 ミッドウェー海戦の大敗北により航空艦隊の増強が不可欠となり予科練も大増強が要求された。これまで予科練教育を引き受けていた 土浦海軍航空隊・ 三重海軍航空隊・ 鹿児島海軍航空隊だけの施設ではパイロット育成は一気に逼迫状態となった。
1942年(昭和17年) 帝国海軍会議にて『水陸諸々施設ヲ急速整備ノ要ニシタル経費』の承認を受け基地建設の決定がされる[5]。
「新大津市史 上」参照。1943年(昭和18年秋) 海軍省・施設本部より派遣された松本大佐は地権者、数十名を滋賀国民学校に召集し挨拶の後半『急いで調印をお願いしたい、調印が遅れ日本が敗戦した時には地主に責任があるとした』承認者は右側、不審者は左側にと指示があり、既に根回しをされていると思われる1番の大地主牛尾氏が右側に大きく立つと地権者の殆どが右側に立つも左側に不審の4〜5人が立った。憲兵が手帳を持って不審者の前に立つと恐怖に駆られる様に右側に移動し僅か30分で調印は終わった。滋賀海軍航空隊の用地買収だけでは無く同様な事例が散見する。正に「悲痛ナル思ヒ」で調印された。他でも「調印ニ応セサレバ非国民ナリト卓ヲ叩ヒテ激語スル」とある[6]。
国難とはいえ地権者は悲痛な気持ちで調印をした事がうかがえる。
三重海軍航空隊の分隊[7]として海軍省・司令部より海軍協会滋賀支部・在郷軍人会・勤労報国隊・学校報国隊等の協力を経て雑木林、農地、放牧地、 学校が有ったが短期間のうちに地権者等に協力を経て農作物の収穫が終了した晩秋に約170,000坪の広大な土地の整備60×1,200m滑走路[8]・二段ベッドの宿舎併設の兵学校・ 格納庫・練兵場・機銃掃射訓練所・弾薬庫等を新設する[9]。
滋賀海軍航空隊の基地建設は主に海軍陸戦隊の佐藤部隊一個大隊・勤労報国隊・入隊した予科練生等が建設にあたっていた[10]。
農地、雑木林、放牧地等は海軍省が買収し、滋賀県立女子師範学校及び国民学校は移転となった。
1944年8月15日に正式に設置される[11]。設置に際しては同年6月から三重海軍航空隊奈良分遣隊より予科練習生が転入し、7月1日にいったん三重海軍航空隊・滋賀分遣隊という名称が与えられていた[12]。配属された隊員は、訓練の後特別攻撃隊員として転出していった[12]。
付近には大津連隊区司令部・大津海軍航空隊・陸軍少年飛行兵学校、天虎飛行研究所、大戦末期の昭和20年7月比叡山山頂付近に櫻花特攻基地が新設途中に終戦となった [13][14]。
設置からちょうど1年後に終戦を迎え、同年11月限りで解散した[12]。
湖西線唐崎駅前に、「滋賀海軍航空隊跡」と刻まれた記念碑が建立されている[11]。
訓練機としてグライダー、九三式中間練習機(赤とんぼ)、零式練習用戦闘機 [15]。 整備員が配備・配属されたが練習機の不足により飛行練習教程に進めない生徒が続出する[16]。
昭和20年1月に水上戦闘機 強風 (航空機)が滑走路隣、琵琶湖に僅かな期間配属され[17]。
昭和20年5月に鈴木部隊・九三式中間練習機(赤とんぼ)が配備される(機数不明)[18]。
昭和20年7月に鈴木部隊・零式艦上戦闘機5機配備される[2]。
アメリカ海軍省の昭和20年9月1日発表によれば、残存機は九三式中間練習機11機、零式艦上戦闘機5機、零式練習用戦闘機6機であった。
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