武州鉄道
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この項目では、1924年から1938年まで埼玉県で営業していた武州鉄道について説明しています。1959年に計画され、未成線となった武州鉄道については「武州鉄道汚職事件」をご覧ください。 |
武州鉄道 |
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武州鉄道の蒸気機関車と職員(1927年) | 概要 |
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現況 |
廃止 |
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起終点 |
起点:蓮田駅 終点:神根駅 |
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駅数 |
14駅 |
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運営 |
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開業 |
1924年10月19日 (1924-10-19) |
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最終延伸 |
1936年12月31日 |
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廃止 |
1938年9月3日 (1938-9-3) |
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所有者 |
武州鉄道 |
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使用車両 |
車両の節を参照 |
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路線諸元 |
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路線総延長 |
16.9 km (10.5 mi) |
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軌間 |
1,067 mm (3 ft 6 in) |
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電化 |
全線非電化 |
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テンプレートを表示 |
停車場・施設・接続路線
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東北本線
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0.0
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蓮田
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1.3
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馬込
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2.8
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河合
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5.2
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岩槻北口
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総武鉄道
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渋江
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5.8
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岩槻本通
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6.4
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岩槻 [1]
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8.1
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真福寺
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9.0
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浮谷
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10.6
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笹久保
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12.0
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武州野田
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14.2
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武州大門
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15.4
|
下大門
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16.0
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行衛
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|
16.9
|
神根
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武州鉄道(ぶしゅうてつどう)は、1924年(大正13年)から1938年(昭和13年)にかけて埼玉県を拠点に、同県南埼玉郡綾瀬村(現・蓮田市)の蓮田駅から同郡岩槻町(後の岩槻市、現・さいたま市岩槻区)を経て同県北足立郡神根村(現・川口市)の神根駅までの間で運行されていた鉄道。
概要
1910年(明治43年)、南埼玉郡綾瀬村(現・蓮田市)選出の県会議員飯野喜四郎をはじめとする岩槻町(現・さいたま市岩槻区)と綾瀬村の有志らに対し鉄道院から敷設免許がおり、中央軽便電気鉄道[2]として設立された。翌1911年(明治44年)、動力を電気から蒸気に変更することとし中央鉄道に社名変更した。当初は東京市街と栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)を結ぶことを構想として表明しており、その計画は北千住を起点とし川口、岩槻、幸手、栗橋、古河を経て日光へ至るという壮大なものであった。なお、この時点では並行する東武鉄道伊勢崎線は開通していたが、杉戸(現・東武動物公園駅)から分かれる日光線は未開通どころか、まだ構想の段階だった。
1912年(明治45年/大正元年)に第1期線として川口 - 岩槻間が認可され着工された。
第1期線の起点は当初国有鉄道東北本線の川口駅が予定されていたが、すでに駅前の開発が進んでいたため、廃止された国有鉄道の貨物線跡を活用して乗り入れが可能な赤羽駅に変更された。しかし、赤羽駅構内は手狭で貨物の積み下ろしができないという理由で、貨物用の起点は蕨駅に変更し、途中で分岐する計画へと変更された。
1914年(大正3年)には第2期線として岩槻 - 蓮田 - 忍町(現・行田市)間の認可を受けた。とはいえ、先に着工していた第1期線は竣工期限までに工事が終わらず、資金繰りのため第2期線も着工して先行して開業させることにした。1919年(大正8年)、武州鉄道に社名変更し、1924年(大正13年)に蓮田 - 岩槻間が開業した。この時に中央鉄道設立時から1914年(大正3年)まで監査役として関わっていた[3][4]京成電気軌道(現・京成電鉄)創立者の一人本多貞次郎を社長に招聘した。
有力出資者の多い蓮田より南進する形で路線延長を重ねてきたが、神根駅から東京方面への接続路線がない状態では利用客数が伸びるはずもなく、資金難により神根以南の土地の買収が進まない悪循環に陥った。武州鉄道に融資をしていた地元金融機関の大宮商業銀行と大門銀行は経営が困難となり、大宮商銀が武州銀行(埼玉銀行を経て現・埼玉りそな銀行)に合併、大門銀行は鴻巣銀行の傘下に入った後、破綻した。
1927年(昭和2年)になると本多が社長を退き[5]伊那電気鉄道(国有化を経て現・JR東海飯田線)取締役の山口英九郎[6]が社長に、伊原五郎兵衛が監査役に就任した[7]。伊那電気鉄道では電化して蓮田駅より菖蒲町(現・久喜市)まで延長する構想をもっていたが、山口は1931年(昭和6年)に社長を退任してしまう[8]。
沿線の主要都市である岩槻に総武鉄道(東武野田線の前身)が開通すると貨客の流れもそちらへ移り、結局赤羽方面への延伸はかなわず、投機を目的とした東京在住の株主への未払い、融資の回収、政府の補助金打ち切りにより財務状態が極度に悪化。1938年(昭和13年)に全線が廃線となった[9]。廃線に伴い総武鉄道の岩槻町駅は、現在まで続く岩槻駅に改称した。蓮田以北へは、菖蒲に駅予定地を確保し工事を行っていたが、北進は実現しなかった。
一方、根津財閥の中核企業に成長し莫大な建設費を確保できた東武鉄道は1929年(昭和4年)、日光線を開通させ、武州鉄道が果たせなかった東京・日光間の私鉄による連絡を実現している。
なお、途中王子電気軌道の傘下に入ったが、電化はされなかった。王子電気軌道は現在の都電荒川線ならびに王子駅 - 赤羽終点(現在の東京メトロ南北線赤羽岩淵駅に相当)の路面電車を運行、また旧神根村では電気の小売りもしていた会社であり、武州鉄道線が赤羽駅まで開通した段階で直通を構想していたとみられる。
路線データ
- 路線距離(営業キロ):蓮田駅 - 神根駅間16.9km
- 軌間:1067mm
- 駅数:14駅(起終点駅含む)
- 複線区間:なし(全線単線)
- 電化区間:なし(全線非電化)
- 動力:蒸気(雨宮製作所製蒸気機関車2両)、内燃(ガソリン気動車5両)併用
- 閉塞方式:タブレット閉塞式
- 機関庫、転轍機、給水施設:蓮田駅
沿革
運行形態
1936年12月31日当時の運行形態を示す。
- 列車本数:11往復(他に臨時区間列車 岩槻駅 - 蓮田駅1往復、神根駅 - 岩槻駅1往復)
- 所要時間:全区間42分
駅一覧
1936年12月31日当時の駅を示す。
蓮田駅 - 馬込駅 - 河合駅 - 岩槻北口駅 - 岩槻本通駅 - 岩槻駅 - 真福寺駅 - 浮谷駅 - 笹久保駅 - 武州野田駅 - 武州大門駅 - 下大門駅 - 行衛駅 - 神根駅
輸送・収支実績
年度
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乗客(人)
|
貨物量(トン)
|
営業収入(円)
|
営業費(円)
|
益金(円)
|
その他益金(円)
|
その他損金(円)
|
支払利子(円)
|
政府補助金(円)
|
1924 |
15,093 |
9,791 |
10,004 |
15,447 |
▲ 5,443 |
|
|
|
|
1925 |
39,922 |
25,404 |
21,958 |
29,260 |
▲ 7,302 |
|
雑損1,318 |
15,971 |
|
1926 |
52,618 |
27,473 |
21,502 |
29,131 |
▲ 7,629 |
|
雑損5,452 |
5,899 |
|
1927 |
56,006 |
24,565 |
21,544 |
24,359 |
▲ 2,815 |
減資差益493,000 |
雑損109,682 |
38,313 |
35,544
|
1928 |
98,659 |
47,373 |
39,586 |
36,232 |
3,354 |
|
雑損230 |
14,011 |
14,968
|
1929 |
144,886 |
29,007 |
38,847 |
44,292 |
▲ 5,445 |
|
雑損2,640 |
20,292 |
33,881
|
1930 |
122,938 |
20,911 |
31,620 |
36,662 |
▲ 5,042 |
|
雑損償却金17,470 |
11,848 |
34,630
|
1931 |
106,618 |
22,353 |
25,372 |
37,755 |
▲ 12,383 |
|
雑損90償却金11,600 |
7,226 |
31,629
|
1932 |
100,046 |
15,344 |
21,099 |
33,284 |
▲ 12,185 |
|
雑損償却金18,103 |
4,407 |
34,884
|
1933 |
85,490 |
16,696 |
39,586 |
36,232 |
3,354 |
|
雑損230 |
14,011 |
14,968
|
1934 |
88,579 |
16,235 |
21,171 |
31,212 |
▲ 10,041 |
債務免除10,500 |
償却金11,780 |
5,164 |
17,970
|
1935 |
77,589 |
13,923 |
20,754 |
33,565 |
▲ 12,811 |
債務免除16,994 |
雑損償却金11,097 政府補助金返納336 |
2,837 |
20,592
|
1936 |
85,516 |
16,878 |
21,880 |
34,895 |
▲ 13,015 |
|
雑損償却金4,594 |
2,340 |
19,960
|
1937 |
92,536 |
15,175 |
23,117 |
38,934 |
▲ 15,817 |
|
雑損償却金1,124 |
2,657 |
19,603
|
- 鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版による。
車両
開業時は機関車2両、客車3両、貨車4両[23]。
車両数の変遷
年度 |
機関車 |
動車 |
客車 |
貨車
|
有蓋 |
無蓋
|
1924 - 1926 |
2 |
|
2 |
1 |
3
|
1927 |
3 |
|
2 |
1 |
3
|
1928 - 1932 |
3 |
3 |
2 |
1 |
3
|
1933 |
3 |
4 |
2 |
2 |
3
|
1934 |
3 |
4 |
2 |
1 |
2
|
1935 |
2 |
4 |
2 |
1 |
2
|
1936 - 1937 |
2 |
4 |
1 |
1 |
2
|
- 鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版による。
廃線後
現在も残る廃線跡
武州鉄道の蓮田駅は駐輪場となっている。駐輪場から先、公民館の裏手までは駐車場となっているが、すぐに住宅地に埋もれてしまう。蓮田市立蓮田南小学校付近までは土地の形状から探ることができるが、その先は区画整理が行われた地区で、線路の痕跡はない。
さいたま市岩槻区に入った馬込駅跡付近から線路跡は道路となって現れ、人間総合科学大学蓮田キャンパスの東側で国道122号と交差する。直進して東北自動車道・国道122号蓮田岩槻バイパスと交差し、平林寺の河合幼稚園付近まで続く。その先線路跡は畑や住宅となっているが、畑と畑の境界線や土地の形状から容易に線路跡が判別できる。平林寺公民館が線路跡に建っている。住宅地に入った御幸町・日の出町でも、土地が道路の方向に合わない不自然な向きになっていることから線路跡が判別できる。東武野田線と交差し、浄安寺の前を通過する。埼玉県道2号さいたま春日部線との交差した先の家が岩槻本通駅跡である。
岩槻本通駅から岩槻駅跡までは住宅地に飲み込まれているが、土地の形状から容易に探ることができる。線路跡はさいたま市立岩槻中学校の敷地を通過している。岩槻駅跡はさいたま市立太田小学校付近である。
線路跡は東町二丁目交差点のすぐ西側で国道16号岩槻春日部バイパスと交差し、浮谷バス停付近で埼玉県道324号蒲生岩槻線に飲み込まれるが、さいたま市立城南小学校を過ぎた先で右手方向に分かれてゆく。目白大学岩槻キャンパスに入る道は武州鉄道の跡を利用したものである。目白大学から先は一直線に続く。土地の形状から線路跡が容易に判別でき、一部は道路や駐車場になっている。埼玉県中古自動車販売商工組合の事務局付近を通過し、綾瀬川にいたる地点まで線路跡がはっきりしているが、その先は区画整理地区に飲み込まれている。以前は伝右川と交差する地点に橋台が残されていたが、浦和美園駅周辺の開発により2013年の時点で撤去されている。埼玉スタジアム2002の西側から、線路跡は東北自動車道となって、神根まで至る。この付近では、東北自動車道は武州鉄道の用地を利用して建設された。
昭和50年代の終わり頃まで、浮谷地区には掘割の路線跡が残されており、笹久保地区には土盛の築堤跡とともに数箇所の橋台が残されていた。しかし、全線に渡り線路を残した廃線跡は皆無であった。浮谷地区の廃線跡は現在の目白大学に埋もれている。武州大門駅 - 神根駅間は、東北自動車道と国道122号の用地として大部分が転用された。
岩槻区南下新井の酒屋「たねや」の倉庫として、浮谷駅の倉庫が使われていた。現在は閉業している。
廃線後の交通機関
脚注
- ^ 東武野田線の岩槻駅とは別の駅
- ^ 当初は併用軌道を走る電車(軌道条例)として申請していたがのちに専用軌道を走る電気鉄道(軽便鉄道法)に変更し社名も中央電気軌道から中央軽便電気鉄道に変更(No.1「軽便鉄道敷設免許ノ件」14-23頁『第十門・私設鉄道及軌道・三、軽便鉄道・武州鉄道(元中央鉄道)自明治四十三年至明治四十五年』)
- ^ No.10「監査役改選就任登記済届」『第十門・私設鉄道及軌道・三、軽便鉄道・武州鉄道(元中央鉄道株式会社)・営業廃止・大正元年~大正五年』
- ^ 『岩槻市史』通史編、1985年、1027-1028頁
- ^ 本多は地元重役と対立があったという(白土貞夫「本多貞次郎と政界活動」『鉄道ピクトリアル』No.632、127頁)
- ^ 『人事興信録. 9版(昭和6年)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『地方鉄道軌道営業年鑑』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 飯山實「武州鉄道について」『浦和市史研究』NO.2、179頁
- ^ "武州鉄道 その五 ~生きている武州鉄道~ 武州鉄道顕彰会". ウェブらうんじ【岩槻版】. 10 October 2017. 2021年5月8日閲覧。
- ^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1910年11月11日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 板橋の醤油製造業者。東上鉄道発起人(澤内一晃「東武鉄道東上線の歴史過程」『鉄道ピクトリアル』No.880)
- ^ No.3「発起人追加及起業目論見書変更ノ件」13頁『第十門・私設鉄道及軌道・三、軽便鉄道・武州鉄道(元中央鉄道)明治四十三年至明治四十五年』
- ^ No.5「会社設立届」『第十門・私設鉄道及軌道・三、軽便鉄道・武州鉄道(元中央鉄道)明治四十三年至明治四十五年』
- ^ 『日本全国諸会社役員録. 第20回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1913年9月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1924年10月25日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ No.22「田中臨時停車場設置ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・武州鉄道・営業廃止・大正十年~大正十五年』
- ^ 「鉄道免許状下付」『官報』1928年2月4日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1929年1月18日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b 「鉄道免許取消」「鉄道免許失効」『官報』1935年6月3日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「鉄道起業廃止」『官報』1938年9月3日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「鉄道運輸営業廃止実施」『官報』1938年9月29日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ No.17「岩槻蓮田間運輸営業開始ノ件」8頁『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・武州鉄道・営業廃止・大正十年~大正十五年』
- ^ 「宇佐参宮鉄道ヘ機関車譲渡ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・武州鉄道・営業廃止・大正十年~大正十五年』(国立公文書館 デジタルアーカイブ)
- ^ 手続き上は1928年譲受となっている。No.5「機関車譲受使用ノ件」1928年1月、No.10『機関車竣功ノ件通牒』『第一門・監督・二、地方鉄道・武州鉄道・営業廃止・昭和二年~昭和六年』
- ^ 「東北本線沿線に失われた私鉄の接続駅を訪ねる3 蓮田 武州鉄道 そのIII」112-113頁
- ^ 澤内一晃「南海の二軸客車」『鉄道ピクトリアル』No.835
- ^ No14「車両譲受ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・武州鉄道・営業廃止・大正十年~大正十五年』
- ^ No.29「北総鉄道ニ客車譲渡ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・武州鉄道・営業廃止・大正十年~大正十五年』竣功図4頁
- ^ No.9「車両譲受ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・武州鉄道・営業廃止・大正十年~大正十五年』
- ^ No.10「貨車譲受ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・武州鉄道・営業廃止・大正十年~大正十五年』
参考文献
- 岩槻市役所市史編纂室『岩槻市史』 近・現代資料編1 近代資料、1984年3月。
- 岩槻市役所市史編纂室『岩槻市史』 近・現代資料編2 新聞資料、1981年1月。
- 『浦和市史』 近代資料2。
- 『浦和市史』 通史編3。
- 『川口市史』 近代資料編1。
- 『鳩ヶ谷市史』 通史編。
- 郷奇智『幻の武州鉄道』岩槻地方史研究会、1976年11月。
- 花井正弘「東北本線沿線に失われた私鉄の接続駅を訪ねる3 蓮田 武州鉄道 そのI - III」『鉄道ファン』通巻452-454号1998年12月-1999年2月、交友社。
- 『第十門・私設鉄道及軌道・三、軽便鉄道・武州鉄道(元中央鉄道)自明治四十三年至明治四十五年』(国立公文書館デジタルアーカイブ で画像閲覧可)
- 『第十門・私設鉄道及軌道・三、軽便鉄道・武州鉄道(元中央鉄道株式会社)・営業廃止・大正元年~大正五年』(国立公文書館デジタルアーカイブ で画像閲覧可)
- 『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・武州鉄道・営業廃止・大正十年~大正十五年』(国立公文書館デジタルアーカイブ で画像閲覧可)
- 『第一門・監督・二、地方鉄道・武州鉄道・営業廃止・昭和二年~昭和六年』』(国立公文書館デジタルアーカイブ で画像閲覧可)
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、 武州鉄道に関連するカテゴリがあります。
外部リンク
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