植村 澄三郎(うえむら ちょうざぶろう、1862年12月2日(文久2年10月11日)[1][2] - 1941年(昭和16年)1月17日[2])は、日本の実業家。族籍は東京府士族[1][3][4]。経団連会長植村甲午郎は息子、農学博士の渋沢寿一はひ孫にあたる。甲斐出身。
人物
甲斐国甲府(現山梨県)生まれ[5]。幕臣・植村厚十郎の長男[1][4]。明治維新の際横須賀に移住する[1]。家は素より貧窮を極めたため、幼い頃から小田信樹の塾僕となり、傍ら漢籍を修めた[5]。
1879年、上京し、開拓使の東京出張所吏員となる[1][5]。後に大蔵省、農商務省等に勤務し、1887年、逓信省に転じ、累進して管理局次長となる[5]。1889年、官を辞し実業界に入る[5]。
1889年、北海道炭礦鉄道設立のときに入社し経理部支配人となり、渋沢栄一の勧めで1894年、札幌麦酒専務取締役、1906年、大日本麦酒常務取締役に就任、原料麦の改良、麦芽・ホップの国産化などにつとめた[6]。
日本醋酸製造取締役会長[3][4]、オリエンタル写真工業取締役会長、十勝開墾社長[7]、三共、南米土地、理化学興業各取締役[3][4]、電気化学工業、大和醸造各監査役[3][4]、東宝映画、大日本麦酒、満州パルプ工業各相談役[4]、維新史料編纂会委員などをつとめる[4]。
1883年、家督を相続[3][4]。宗教は神道[4]。住所は東京市赤坂区青山南町[1]、同区表町[3]。墓所は多磨霊園。
家族・親族
- 植村家
脚注
参考文献
- 人事興信所編『人事興信録 第3版』人事興信所、1903-1911年。
- 東洋新報社編『大正人名辞典』東洋新報社、1917年。
- 人事興信所編『人事興信録 第11版 上』人事興信所、1937-1939年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版 上』人事興信所、1940年。
関連項目