最上 義雅(もがみ よしまさ)は、江戸時代中期の旗本。最上氏の第15代当主。最上義智の子で、交代寄合(近江国大森陣屋5000石)としては2代目当主。
生涯
明暦2年(1656年)[注釈 1]、最上義智の次男[1]として生まれる。兄の孫三郎は早世しており[1]、寛文7年(1667年)9月5日、12歳のときに継嗣として将軍徳川家綱に御目見している[1]。
元禄10年(1697年)3月9日に父が没し[1]、7月11日に遺跡を継承した[1]。
元禄12年(1699年)1月9日、近江国大森陣屋(現在の滋賀県東近江市大森町)で没[1]、44歳[1]。大森村の隣村尻無村(現在の東近江市尻無町)にある菩提寺[2]の妙応寺に葬られた[1]。
末期養子として、永井直増の次男(最上義如)を迎えた[1]。
系譜
母は『寛政重修諸家譜』に義智の正室である「松平和泉守の養女」と記載されている[1]。法名を渓台院殿といい、三条西実条の長女で、松平和泉守乗寿の養女になった人物である[3](最上義智#系譜参照)。
『寛政重修諸家譜』によれば、実子として1男1女が挙げられているが、男子(八十郎)は早世し、女子は事績の記載がない[1]。
脚注
注釈
出典
最上氏第15代当主(1697年 - 1699年) |
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