最上 義春(もがみ よしはる)は室町時代中期から戦国時代の出羽国の武将・大名。最上氏第5代当主。山形城城主。右京大夫。左馬助、修理大夫。
生涯
『寛政重修諸家譜』(寛政譜)では満家の子、『後鑑』では頼宗の子としている。母は某氏。
兄弟について、『寛政譜』は、義春、頼宗、義秋の順に記述した上で、「今の呈譜、義春をもつて頼宗が弟とす」と別記している。また、義秋は「兄義春が養子」とする。
嘉吉3年(1443年)、満家の死去に伴い跡を継ぎ最上氏第5代当主となったとされている。「最上・天童・東根氏系譜」(菊地蛮岳旧蔵)では、兄・頼宗が5代、義春は6代となっており、永享2年(1430年)、頼宗が退隠し、同年、義春が家を継いだことが記述されている。
『寛政譜』では、満家が死去した際、義春が建立した禅会寺(最上郡長瀞)に葬ったとしている。
初名は政家であったが、将軍足利義政から「義」の字を賜り、名を義春と改めた。義春以降の最上氏歴代当主は足利将軍家から「義」の偏諱を受けている。宝徳2年(1450年)5月、庄内妙味水の城を攻めたが逆に捕らえられ、7月上旬に和議が成り解放された[8]。
寛正2年(1461年)10月と文正元年(1466年)、義政の命を受け、古河公方・足利成氏攻めに参加している。
出羽国に龍門寺を建立した。
文明6年(1474年)2月21日、死去(『寛政譜』は3月と別記している)。「山形県史蹟名勝天然紀念物調査報告」では、文明2年(1470年)3月21日死去となっている。
天直源公龍門寺、あるいは龍門寺殿天眞源公、龍門寺殿天眞源公大居士。龍門寺に葬られた。
『後鑑』は、義春の子・義秋が、文明12年(1480年)12月26日に死去したと伝えている。
脚注
- ^ 「皆川町」『日本歴史地名大系』。https://kotobank.jp/word/%E7%9A%86%E5%B7%9D%E7%94%BA。コトバンクより2023年11月19日閲覧。
- ^ 「羽黒山年代記」『寒河江市史 上巻』p.670
参考文献
最上氏第5代当主(1443年? - 1474年) |
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