時子山 常三郎(とこやま つねさぶろう、1900年〈明治33年〉4月9日 - 1984年〈昭和59年〉6月26日)は、日本の経済学者。早稲田大学第9代総長[1]。日本私立大学連盟第5代会長[2]。
長男は元一橋大学経済学部教授で計量経済学者の時子山和彦[3]。
来歴
1900年4月8日、大阪府堺市に生まれる。旧制桃山中学校(現・桃山学院中学校・高等学校)卒業[4]。早稲田大学附属第一高等学院文科(政経)、早稲田大学政治経済学部経済学科を経て、1927年4月、早稲田大学大学院(財政学・統計学専攻)に進学し、1929年3月まで在籍する。1933年4月から在外研究員としてアメリカ合衆国・ドイツに留学する。
1939年4月から早稲田大学専門部政治経済科教授に、1940年2月から同大学政治経済学部教授に、1949年4月から第一・第二政治経済学部教授および同学部長になる。
1959年、桃山学院大学経済学部教授に就任(早稲田大学教授と兼任)[4]。
1960年3月、経済学博士(旧制)の学位を受ける。
1968年6月、早稲田大学総長に就任する。1970年10月、任期満了により総長を退任する。1971年3月、早稲田大学教授を定年退職する。
1969年5月、漢陽大学校から名誉博士の称号を受ける。
1984年6月26日に亡くなり、6月28日に真珠院において葬儀が、7月16日に大隈講堂において合同葬が行われる。
人物
早稲田大学総長として先代・阿部賢一総長に引き続き大学紛争の解決に力を注ぎ、また大学史の編纂事業を手がけた。時子山は、早稲田大学百年史の編纂に着手するにあたり、大隈重信が早稲田大学を創設する際、模範としたバージニア大学に書簡を送り、社史編纂への支援を依頼した。それまで友好関係がなかったバージニア大学からの協力を取り付け、トーマス・ジェファーソンのバージニア大学創設理念を含む大学史資料の提供を受けるなど、友好関係の構築を行った[10]。
早稲田大学雄弁会の学生弁論大会で優勝した海部俊樹(後の第76・77代内閣総理大臣)を「海部の前に海部なし、海部の後に海部なし」と評した。
著書
単著
翻訳
編集
脚注
参考文献
- 「時子山常三郎教授年譜・著作目録」『早稲田政治経済学雑誌』第224-225巻、早稲田大学政治経済学会、1970年10月1日、291-422頁、NAID 40003925422。
- 「座談会 時子山常三郎先生を偲ぶ」『早稲田大学史記要』第18巻、早稲田大学大学史編集所、1986年3月10日、211-223頁、NAID 40003928983。
外部リンク
日本私立大学連盟会長(第5代:1969年 - 1970年) |
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