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星野 秀孝(ほしの ひでたか、1949年11月26日[1] - )は、群馬県利根郡利根村出身のプロ野球選手(投手)。左投げ左打ち[1]。
沼田高校武尊分校には硬式野球部がなかったため、星野は軟式野球部で活動した。「プロの入団テストがあったら教えて欲しい」と周囲に言っていると、星野の存在が、東京大学出身者であった「学校の事務員の先輩か何か」を通じて、東大OBで当時中日ドラゴンズに在籍していた井手峻を経由し、ちょうど関東の各学校を巡回する予定だったスカウト・田村和夫の知るところとなり、視察のチャンスを得た。星野は学校の昼休み、田村を捕手として投球テストを受けることになったが、緊張でボールが高めにしか行かなかった。田村の「ベース板にぶつけてみなさい」とのアドバイスを受け、低めに投げたところ、今度は田村の腹に当たってしまう。しかし、左からのキレのあるボールが田村の目に留まり、田村に「東京に出て来い」と呼び寄せられた星野は、中日OBで、当時評論家の杉下茂と対面を果たす。杉下の指示に従って投球を披露した数か月後、1967年のドラフト8位で中日に入団を果たす。これには杉下の推薦があったのではないか、と星野は見ている[2]。
入団当時、身長178センチメートル・体重60キログラムと「一般人としても華奢な体型」を自認していた星野は、1年目の1968年には本多逸郎二軍監督の厳しい練習について行くのが精一杯で、春季キャンプ中には体重が50キログラム台にまで落ちたという。2年目の1969年には、不動の4番打者であった江藤慎一に投球を評価され、自信をつけるようになる[2]。
無名校卒、ドラフト下位指名、軟式出身ということもあり、当初は一軍デビューのチャンスを得られなかったが、「黒い霧事件」でエースの小川健太郎を失い、チームが投手力を欠いた1971年に、ウエスタンリーグで4勝・防御率0.95と好成績を残していたことを買われ、同年7月27日のヤクルト戦(神宮)で、1回1死で緊急降板した先発・渋谷幸春の後を受け、ロングリリーフでの初登板を果たした(その試合は9回まで1人で投げ切った)。1972年は左足の親指の裏にマメができた影響でフォームを崩して肩を痛め、一軍登板ゼロに終わる[2]。
1973年は13試合に登板。1974年には初の開幕一軍入りを果たし、4月6日の広島との開幕戦(中日)では5回5失点で降板した先発・星野仙一に代わって登板し、6回からの2イニングを無失点に抑えた。その間に捕手・木俣達彦の逆転3ラン本塁打によって勝ち越し、星野はプロ入り7年目で初勝利を手にした。同25日の阪神戦(甲子園)で初完封を達成。同年の星野は自己最多の37試合に登板し、巨人のV10を阻止する20年ぶりのリーグ優勝に貢献した。同年のロッテオリオンズとの日本シリーズでは2試合にリリーフで登板した[2]。
1975年に突如、プロ人生の転機が訪れた。同年6月21日の巨人戦(中日)で初回に柴田勲に本塁打を打たれ、さらに満塁にしたところで降板。その後局面はデーブ・ジョンソンの満塁本塁打となり、高木時夫一軍バッテリーコーチに罰走を命じられてそのまま二軍落ちしたほか、激昂した与那嶺要監督に「あんた八百長やったの?」と詰問されるなど、首脳部の信頼を一気に失い、翌年には南海ホークス・西岡三四郎との交換トレードを通告された[3]。
南海では、野村克也選手兼任監督のもと、同年および1977年にそれぞれ4勝を挙げたが、中日時代の肩の不調の再発だけでなく、肘の故障も抱えており、フォームをサイドスローやアンダースローに変更するなどの試行錯誤をはかったが、納得の行く投球を取り戻せず、1980年に球団の慰留を断り、現役を引退[3]。
引退後は愛知県に戻り、日進市で妻の家業である喫茶店(2007年7月に閉店)の経営を手伝ったほか、草野球や少年野球の指導にたずさわっている[3]。また、1992年には映画『ミスター・ベースボール』に中日のコーチ・安達役で出演した。
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