日高 晶彦基本情報 |
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国籍 |
日本 |
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出身地 |
広島県広島市西区 |
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生年月日 |
(1952-08-19) 1952年8月19日(72歳) |
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身長 体重 |
175 cm 75 kg |
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選手情報 |
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投球・打席 |
右投右打 |
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ポジション |
投手 内野手 |
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プロ入り |
1970年 ドラフト6位 |
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初出場 |
1971年9月23日 |
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最終出場 |
1976年10月10日 |
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経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
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日高 晶彦(ひだか あきひこ、1952年8月19日 - )は、広島県広島市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手、内野手。
来歴・人物
広島商では1年生の時、1968年秋季中国大会決勝に進み、玉島商の松枝克幸(法大-西川物産)と投げ合うが敗退。しかし翌1969年春の選抜への出場を決める。大会では2回戦(初戦)で先発し、首里高を降す。準々決勝ではリリーフに立つが、浪商の上田芳央に完封を喫する[1]。1年上のチームメートに佐々木幸治がいた。
翌1970年の夏はエースとして県予選決勝に進出。中学生の時からのライバルである広陵高の佐伯和司に、延長10回の熱戦の末に投げ勝ち、甲子園に出場。しかし2回戦で高松商の大北敏博に0-1で完封され敗退した[2]。高校同期には四番打者、外野手の船田政雄がいた。右オーバースローからカーブ、シュート、スライダーを投げ分けた。
1970年ドラフト会議で東映フライヤーズから6位指名を受け入団(同期の船田もドラフト4位で東映に入団)。1971年3月14日の広島とのオープン戦では4イニングを3安打に抑え期待された。同年は1先発を含め4試合に登板したが結果を残せず、その後は登板機会がなくなる。1974年に内野手へ転向、翌1975年には主に三塁手として5試合に出場、1976年の最終戦で一塁手として先発出場を果たすが、大きな活躍はできず1977年限りで引退した。
現在は地元で飲食店を経営している。(天麩羅・天晶)
詳細情報
年度別投手成績
年度別打撃成績
- 東映(東映フライヤーズ)は、1973年に日拓(日拓ホームフライヤーズ)に、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更
背番号
脚注
- ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
- ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
関連項目
外部リンク