弥勒寺(みろくじ)は、愛知県東海市大田町にある真言宗智山派の寺院。知多四国霊場の第83番札所である。
沿革
天平勝宝元年(749年)に行基が創建したとも、弘仁5年(814年)に空海が創建したとも伝えられる。
最盛期には一山六ケ寺七堂伽藍を有したというが、関ヶ原の戦いで西軍についた九鬼嘉隆の軍勢による襲撃を受け[注釈 1]、仁王門と本尊の弥勒菩薩を除いて焼失してしまう。
元禄年間(1688年 - 1704年)になって、尾張藩第2代藩主・徳川光友の寄進により再建された[注釈 2]。
その後、江戸時代後期から明治時代半ばにかけて無住状態が続くなど再び衰退するも、大正時代に入ってから境内の宝篋印塔が「現世利益の祈願塔」として知られるようになり、再興を果たす。
境内
ギャラリー
文化財
東海市指定文化財
- 木造弥勒菩薩座像[7][9]
- 座高約80cm、欅材の寄木造。『張州雑志』には行基の作とあるが、実際は室町時代の作とされる。像容は飛鳥時代・奈良時代の弥勒像と異なり、小塔を捧げ持つ平安時代中期以降の形式。輪光は、寛永17年(1640年)に住持・政久が、像の開帳にあわせて作り奉納したとされる。
- 木造金剛力士立像(仁王像)[7][10]。
- 阿形は高さ272.6cm、楠(一部桧)材の寄木造。吽形は高さ273.1cm、楠材の一木造。平安時代末期(12世紀頃)の作と考えられており[11]、もともと運得寺(東海市荒尾町)にあったものを応仁2年(1468年)に移設したと伝えられる。長年の風雨にさらされ、傷みが激しい。
その他
- 錫杖
- 知多四国八十八箇所を開創した一人である、武田安兵衛が携帯していたもの。
御詠歌
限りなき 弥勒の御世に 大里の 法の御庭に となふ声明
その他
境内北東方の台地には、かつて寺坊が軒を連ねていたと伝えられてきた。同地でのマンション建設に伴い、平成8年(1996年)に東海市教育委員会が発掘調査したところ、弥生時代の土坑や古墳時代の須恵器、戦国時代の「天文十五年」(1546年)銘を持つ硯・天目茶碗等の陶器・五輪塔の笠・焼けた壁土等が出土し、「知多弥勒寺遺跡」と名づけられた[12]。
所在地
アクセス
- 鉄道(公共交通機関)
- 自動車(自家用車)
注釈
- ^ 織田信長の兵火によるともいわれる
- ^ 織田信長による兵火の後、天文11年(1542年)に顕昌という僧が再興したともいう
出典
- ^ 「ピカピカ仁王像 東海市の弥勒寺 僧らが精入れ」、中日新聞2008年5月25日付朝刊、知多版、20頁
- ^ 宮崎仁美「愛・地球博 万博秋天 千年先見据え仏像彫り 地元の仏師が実演」、中日新聞2005年9月16日付朝刊(万博面)、7頁
- ^ a b 境内文化財説明板(東海市教育委員会設置)
- ^ “東海市の文化財”. 東海市. 2016年11月2日閲覧。
- ^ “東海市の文化財”. 東海市. 2016年11月2日閲覧。
- ^ 松本芳孝「仁王像は800歳 東海の弥勒寺 県文化財保護審委員ら調査」、中日新聞2005年5月25日付朝刊、知多版、20頁
- ^ “愛知県東海市知多弥勒寺遺跡発掘調査報告 - 全国遺跡報告総覧”. 奈良文化財研究所. 2016年11月2日閲覧。
参考文献
- 境内文化財説明板(東海市教育委員会設置)
- 石川松衛『横須賀町誌』愛知県史跡編纂会・知多郡横須賀町役場、1928年。
- 横須賀町史編集委員会編 編『横須賀町史』横須賀町役場、1969年。
- 東海市教育委員会編 編『東海市の文化財』東海市教育委員会、1990年。
- 東海市史編さん委員会編 編『東海市史』 通史編、愛知県東海市、1990年。
- 知多四国霊場会監修 編『知多四国巡礼決定版地図ガイド』(改訂新版)歴遊舎、2013年。ISBN 978-4904896020。