平沢 隆好(ひらさわ たかよし、1953年7月30日 - )は、愛知県一宮市出身の元プロ野球選手(投手)[1]。
来歴・人物
津島高卒業後の1974年に日本通運名古屋へ入社し、1975年の都市対抗では補強選手となるも登板は無かった。
同年のドラフト5位で南海ホークスに入団[1]。スライダー、シュートが武器であったが、最初の2年間は二軍生活を送る。2年目の1977年はケガ続きで、ウエスタン・リーグでも4試合にしか投げられなかったが、江夏豊らが抜けた投手陣で「ワンポイントでも左なら使えるだろう」と一軍入り。3年目の1978年4月13日に近鉄戦(大阪)で初登板を果たし、8回表から星野秀孝・佐々木宏一郎の3番手で2回を無失点に抑えた。6月12日の近鉄戦(日生)では初先発を果たすが、6回0/3を2失点で初敗戦。8月19日のロッテ戦(大阪)では先発で二塁も踏ませないという完璧なピッチングをし、5安打散発のシャットアウト勝ちでプロ初勝利を飾った。首脳陣が左腕不足に頭を抱え、唯一、実績のある星野が投げられず、上田卓三サブマネージャーを現役復帰させるなどしていた中、平沢は初完投初完封初勝利という離れ業をやってのけた。1980年にはフォームを左腕の横手投げに変え、8月16日のロッテ戦(大阪)で2回途中から田村政雄を救援してシュート、スライダーでうまく攻め、1失点のロングリリーフで1年ぶりの勝ち星を挙げた。これが最後の勝ち星となり、1981年には開幕直後こそ一軍に名を連ねるも二軍落ち。左打者用のワンポイントに使ってみても四球や安打を許したため、首脳陣が二軍で鍛え直しを命じたが、一軍再昇格後は好投。8月15日の日本ハム戦(大阪)では4回までに3失点の山内新一の2番手で5回からマウンドに上がったが、残りの5回を被安打3の無失点に切り抜けた。板に付いた新しいフォームでカーブ、シュートを巧みに操り、上手から投げるストレートは重く入った。同18日の近鉄戦(日生)でも3回途中から登板し、5回を被安打2の無失点に抑えた。チームは3-3で引き分けたが、ドン・ブレイザー監督は「平沢の好投が光った。こんな投球をしてくれるのなら、ローテーション入りも考える」と言った。3試合11イニング無失点と首脳陣の期待に応えていたが、30日の阪急戦(西宮)の6回に山内新をリリーフして登板し、6、7回を無難に抑えるも、8回に先頭の中沢伸二に左翼席へ6号本塁打をかけられ、これが決勝打となり敗戦。1983年には一軍登板が無くなり、自由契約となったため現役を引退。
引退後は南海→ダイエーで打撃投手(1984年 - 1992年)を務めた。
詳細情報
年度別投手成績
年
度 |
球
団 |
登
板 |
先
発 |
完
投 |
完
封 |
無 四 球 |
勝
利 |
敗
戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝
率 |
打
者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬
遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴
投 |
ボ 丨 ク |
失
点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P
|
1978
|
南海
|
23 |
5 |
1 |
1 |
0 |
1 |
4 |
0 |
-- |
.200 |
278 |
64.2 |
75 |
11 |
19 |
0 |
2 |
20 |
0 |
0 |
44 |
40 |
5.54 |
1.45
|
1979
|
33 |
13 |
2 |
0 |
1 |
2 |
11 |
0 |
-- |
.154 |
427 |
94.1 |
113 |
20 |
41 |
1 |
3 |
37 |
0 |
0 |
79 |
74 |
7.09 |
1.63
|
1980
|
18 |
1 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
-- |
1.000 |
152 |
33.1 |
44 |
9 |
12 |
0 |
0 |
20 |
0 |
0 |
27 |
27 |
7.36 |
1.68
|
1981
|
12 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
-- |
.000 |
79 |
18.0 |
19 |
3 |
6 |
0 |
1 |
8 |
0 |
0 |
10 |
9 |
4.50 |
1.39
|
1982
|
15 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
-- |
---- |
82 |
17.2 |
21 |
4 |
8 |
1 |
0 |
7 |
0 |
0 |
11 |
11 |
5.50 |
1.64
|
通算:5年
|
101 |
19 |
3 |
1 |
1 |
4 |
17 |
0 |
-- |
.190 |
1018 |
228.0 |
272 |
47 |
86 |
2 |
6 |
92 |
0 |
0 |
171 |
161 |
6.36 |
1.57
|
記録
- 初登板:1978年4月13日、対近鉄バファローズ前期2回戦(大阪スタヂアム)、8回表から3番手で救援登板・完了、2回無失点
- 初先発登板:1978年6月12日、対近鉄バファローズ前期10回戦(日本生命球場)、6回0/3を2失点で敗戦投手
- 初勝利・初先発勝利・初完投勝利・初完封勝利:1978年8月19日、対ロッテオリオンズ後期7回戦(大阪スタヂアム)
背番号
- 42 (1976年)
- 34 (1977年 - 1983年)
- 93 (1984年 - 1989年)[2]
- 102 (1990年 - 1992年)[3]
脚注
関連項目