川口 虎雄(かわぐち とらお、1871年8月20日 - 1944年5月16日)は、日本の土木工学者・教育者。
経歴
福岡県上妻郡津江村(現・八女市津江)に生まれる。1890年福岡県立尋常中学修猷館[3]、1892年第五高等中学校工科[4]を経て、1895年帝国大学工科大学土木工学科を卒業する[5]。
1895年熊本県技手、翌1896年技師となり、国の重要文化財に2004年に指定された旧郡築新地甲号樋門(郡築三番町樋門、熊本県八代市)などを設計している。1900年第五高等学校教授・工学部土木科主任に就任。1905年から2年間アメリカ、フランスに留学してコロンビア大学等で学び、1906年官制改革により第五高等学校工学部から改称された熊本高等工業学校の教授となる。土木工学科長を経て、1911年熊本高等工業学校第2代校長に就任する。熊本高等工業学校は、現在の熊本大学工学部の母体となった。
このころ、広島においても高等工業学校設置の要望が高まり、1918年第10高等工業学校創立委員に川口ら5名が任命され、1920年広島高等工業学校が設置されると初代校長に川口が就任した。教育方針として「人格の陶冶」(人の性質や能力を円満に育て上げること)を重視し、1926年の校則改正では「品性ノ備ラザルモノハ進級セシメザル方針」と記したほどであった。一方で、生徒を青年紳士として取り扱い、生徒を規制する細かな規則を設けなかった。広島高等工業学校は、現在の広島大学工学部の母体となった。
また、広島市の要望を受ける形で、1924年に夜間工業学校である広島市工業専修学校を開校させ、自らその校長となり、広島高等工業学校の校舎を提供するとともに、教官たちに授業を担当させた。同校はその後1937年に広島市工業学校となり、戦後に広島市立広島工業高等学校となった。
その後、1936年に高齢を理由に依願免本官となるまで、16年余にわたり広島高等工業学校を発展させることに寄与した。1944年5月16日広島市において死去。
広島工業会は、1931年に川口の還暦寿像を除幕している。この像は現在広島大学工学部の中庭に安坐している。
栄典・授章・授賞
脚注
- ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』(修猷館同窓会、2020年)同窓会員1頁
- ^ 『第五高等学校一覧(自昭和11年至昭和12年)』(第五高等学校編、1936年)174頁
- ^ 『東京帝国大学一覧(從大正7年至大正8年)』(東京帝国大学、1919年)學士及卒業生姓名171頁
- ^ 『官報』第3110号「叙任及辞令」1922年12月12日。
参考文献
- 高橋裕,藤井肇男『近代日本土木人物事典-国土を築いた人々』鹿島出版会、2013年。ISBN 978-4-30609-429-1。 250頁
- 中国四国教育学会編『教育学研究紀要 第46巻第1部』中国四国教育学会、2001年。 「川口虎雄と広島高等工業学校-産業教育地域実態史研究 第2報」(三好信浩) 133-138頁
広島大学学長(広島高等工業学校長:1920年 - 1936年) |
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熊本大学学長(熊本高等工業学校長:1911年 - 1920年) |
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- 事務取扱/初代 鰐淵健之 1949-1950/1950-1959
- 第2代 本田弘人 1959-1965
- 第3代 柳本武 1965-1969
- 事務取扱 荒木雄喜 1969
- 事務取扱 惣那将愛 1969
- 第4代 六反田藤吉 1969-1970
- 事務取扱/第5代 黒田正巳 1970/1970-1974
- 第6代 岳中典男 1974-1980
- 第7代 松山公一 1980-1986
- 第8代 松角康彦 1986-1990
- 第9代 森野能昌 1990-1996
- 第10代 江口吾朗 1996-2002
- 第11代 崎元達郎 2002-2009
- 第12代 谷口功 2009-2015
- 第13代 原田信志 2015-2021
- 第14代 小川久雄 2021-
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前身諸学校・大学長 |
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| 熊本医科大学附属医学専門部長 |
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熊本医科大学臨時附属医学専門部主事 | |
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熊本医科大学附属医学専門部長 | |
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熊本県立医学専門学校長 | |
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熊本医科大学長 | |
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熊本県立医科大学長 | |
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熊本医科大学長 | |
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