島津 貴澄(しまづ たかずみ)は、江戸時代後期の薩摩藩士。大隅郡垂水[1]領主。藩主一門垂水島津家10代当主。
経歴
元文3年(1738年)11月1日、薩摩藩第4代藩主島津吉貴の六男として父の隠居後に生まれる。母は側室のお幾(郷田兼近の娘)。異母兄に5代藩主継豊、垂水家先代当主の貴儔、同母兄に重富島津家を創設した忠紀、宮之城島津家を相続した久亮、異母弟に今和泉島津家を創設した忠卿がいる。極秘のうちに養子となり、貴儔の直子とされる。
安永4年(1775年)、貴儔が隠居して一門垂水家の家督を相続した。家中の家格は重富家、加治木家に次ぐ3番目の席次となり、これまで前当主貴儔一代限り一門家筆頭であった垂水家当主の席次は原則通りとなる。
安永5年(1776年)に垂水領内に郷校「文行館」を設立し、高崎から市川鶴鳴、讃岐から乾徽猷、本藩からも向井友章、黒田為国等儒学者を招聘して教育に当たらせた。
安永8年(1779年)10月、桜島の安永大噴火の際に、被災者の救助や復旧に尽力した。安永10年(1781年)5月、噴火による死者を供養するために、松岳寺境内に桜島焼亡塔を建てた。
享和3年(1803年)12月1日、隠居し家督を婿養子の貴品に譲る。文化4年(1807年)3月5日死去。享年70。
人物
詩文に巧みで詩集「廃簏詩稿」8巻が、文化9年(1812年)に刊行された。
脚注
参考文献
- 『垂水市史』第1巻 垂水市史編集委員会、1973年
参考サイト
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宗家 |
忠久????-1227 | 忠時1227-1265 | 久経1265-1284 | 忠宗1284-1318 | 貞久1318-1363 | 総州家と奥州家に分裂
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総州家 |
師久1363-1376 | 伊久1376-1404 | 守久1404-???? | 久世????-1417 | 久林1417-1430 | 断絶
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奥州家 |
氏久1363-1387 | 元久1387-1411 | 久豊1411-1425 | 忠国1425-1470 | 立久1470-1474 | 忠昌1474-1508 | 忠治1508-1515 | 忠隆1515-1519 | 勝久1519-1526 | 貴久1526-1566 | 義久1566-1587 | 義弘1587-1602 | 家久1602-1638 | 光久1638-1687 | 綱貴1687-1704 | 吉貴1704-1721 | 継豊1721-1746 | 宗信1746-1749 | 重年1749-1755 | 重豪1755-1787 | 斉宣1787-1809 | 斉興1809-1851 | 斉彬1851-1858 | 忠義1858-1897 | 忠重1897-1968 | 忠秀1968-1996 | 修久1996-2024 | 忠裕2024-
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伊作家 |
久長1281-1317 | 宗久1317-1354 | 親忠1354-1371 | 久義1371-1422 | 勝久1422-1433 | 教久1433-1442 | 犬安丸1442-1458 | 久逸1458-???? | 善久????-1494 | 忠良1494-1526 | 相州家相続
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薩州家 |
用久????-1459 | 国久1459-1498 | 成久1498-???? | 忠興????-1525 | 実久1525-1553 | 義虎1553-1585 | 忠辰1585-1595 | 断絶
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