山屋 他人(やまや たにん、1866年4月18日(慶応2年3月4日) - 1940年(昭和15年)9月10日)は、日本の海軍軍人。海軍大将。皇后雅子の曽祖父[1]。
現在の岩手県盛岡市に盛岡藩士山屋勝寿、ヤスの長男として生まれる。「他人」という名前の由来は「一度(形式的に)捨てた子供を他人に拾ってもらうと丈夫に育つ」という俗信から、父親が「いちいち捨てたり拾ったりは面倒だ。最初から他人にしておけばいいだろう」と名付けたという。
上京し攻玉社に通う。ここで江頭安太郎と知り合い、後に親戚となった[2]。
1886年(明治19年)、海軍兵学校卒業(12期)。
1898年(明治31年)には海軍大学校の教官に任じられる。その在任中には円戦術を考案し、1901年(明治34年)には自身よりも先任である常備艦隊所属艦の艦長にも講義を行っている。円戦術は後に日露戦争で東郷平八郎が採用した秋山真之の丁字戦法と「先頭艦を複数で叩く」という考え方が類似している。円戦術は丁字戦法の基である、または丁字戦法と同一である(山梨勝之進の回想によるが山梨自身は丁字戦法の発案者を山屋だとしている)という説もあるが、秋山は円戦術が距離を基に運動をすることに否定的な考えを示している。日露戦争時には防護巡洋艦「秋津洲」、同「笠置」の艦長、第四艦隊参謀長を務めた。開戦前には連合艦隊の先任参謀に推挙されていたが、東郷がこれを有馬良橘に変更したとも言われる。
明治41年、東宮御用掛を仰せつかる。
戦後は人事局長、軍令部次長、第二艦隊司令長官などを経て第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官となる。
連合艦隊司令長官の後は横須賀鎮守府司令長官、軍事参議官を経て1923年(大正12年)3月31日に予備役となる。
葬儀委員長は同郷の米内光政元・首相が務めた。
位階
勲章等
外国勲章等佩用允許
(出典:官報、アジア歴史資料センター)
「南部藩参考諸家系図」等資料から、
山屋家(稗貫大和守の支族、旧称・亀ヶ森)は、本家と四つの分家のあわせて五系。
「山屋本家」(百十四石)、本家二代目の次男による最初の分家・「山屋権八家」(二人扶持、八代目が山屋他人)、本家四代の次男による分家「山屋茂伯家」(五十一石)、権八家からの分家「山屋誠家」(百石)、さらに誠家からの分家・「山屋薫家」(四人扶持)の計五系である。
山屋他人の出た「権八家」はもっとも小さな分家だが、跡継ぎの確保が困難だった当時、本家・分家相互間の養子は通常で、一族内での庇護のもとにあった。
その「権八家」初代の長男・勝興は長く君側に仕え、諸所の代官職など要職を勤め、禄百石を贈され分家「山屋誠家」を興している。
また「山屋茂伯家」三代・養節は藩主の側医となっている。
(出典文献:「南部藩参考諸家系図」、「諸士給人由緒帳」)
山屋氏 現在の岩手県の中央部に稗貫郡という郡があった。室町・戦国時代この稗貫郡に稗貫氏という領主がおり、その支流に亀ヶ森氏という武士がいた。亀ヶ森姓を名乗っていた山屋家の先祖は稗貫家に仕え、主君稗貫広忠(家法・重綱)の正室の身辺警護を担当した。
和賀・稗貫一揆で稗貫家が没落し、正室は陸奥三戸に赴いて南部信直の側室となって稗貫御前と呼ばれるようになった。山屋家の先祖は稗貫御前に従って三戸で100石で南部信直に召抱えられた。当主の亀ヶ森喜明は陸奥九戸郡山屋村などを与えられたことにちなみ、名を山屋三右衛門喜明に改めたという。
山屋家は江戸時代を通じて盛岡藩士として存続した。喜明は盛岡蔵奉行、治径は野田通代官、林左衛門は雫石筏奉行、龍治は徒頭、健之助は南部丹波守家の家老など要職を歴任した。ただ、山屋他人海軍大将の実家は、本家二代の家明の次男・勘右衛門が興した分家の直系である。[19]
山屋三右衛門喜明 ━ 万左衛門(三右衛門)家明 ━ 万右衛門(三右衛門)辰明 ━ 三十郎(三右衛門)時治 = =三十郎治明 ━ 林 左衛門治常 == 儀八郎(三右衛門)治径 ━ 林左衛門 ━ 三右衛門龍治 ━ 健之助 ━ 直次郎 ━ 恒次郎 ━ 澄 - 洋雄
山屋万左衛門(三右衛門)家明 ━ 勘右衛門 == 勘五郎勝岑 == 門平勝武 == 兵太(勘右衛門) == 留之助(勘右衛門)勝安 == 権八 == 富治勝寿 ━━ 他人 ━━ 太郎
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