翌1889年から先の航海士の計らいで、キリスト教アカデミーに入学。一時病気にかかり家賃も払えず困窮したが、学友から無料診療所(のちベルビュー病院を紹介され1か月入院)と仕事先(海軍病院 USNH New York)を紹介され、窮地を脱した。ニューヨークでの生活を通して、小谷部はアメリカ社会の闇(人種差別・貧困・賭博・アヘン禍・肩書き主義等)に直面して後悔する反面、礼拝とともに娯楽と公教育を担う教会や、救貧院・更生施設・シェルター等のキリスト教的慈善活動に感銘を受け、アカデミーで聖書を学ぶなかで、その教えに基づく母国の弱者救済を将来の目標とした。そして、実践的な知識と技術を学ぶため、ヴァージニア州ハンプトン師範・農業学院[10](現・ハンプトン大学:1868年創立の解放黒人奴隷の職業訓練機関でアメリカ先住民の教育プログラムも実践)の学院長サミュエル・C・アームストロング(1839-1893:名誉准将)との面談を経て、1889年秋に無償の特待生として入学。農学(酪農)及び師範教育コースを受講するとともに、洗礼を受け、正式にキリスト者となった。(Chapter XII-XIV)
翌1890年、ワシントンD.C.のハワード大学(1867年創立の黒人学生を中心とする総合大学)に入学[11]。在学中は、構内のエレミヤ・ランキン総長(1828-1904:神学・法学博士)宅に寄宿、我が子のように厚遇され、総長が牧師を務める第一会衆派教会 First Congregational Church, Washington D.C. の会員にもなった。同校でデッサン・絵画を習った小谷部は才能があったらしく、著名人の肖像画を何枚か描き、一年で100ドル以上稼いだという。また、スピーチ・コンテストでは「英国生まれの雄弁家」と評されたといい、その後学友の提案で行った日本文化に関する講演が評判となり、長期休業時には東海岸諸州の都市で幻灯機(stereopticon views)を使った講演を行い学費を稼いだ。4年目の夏には単身でヨーロッパへ講演旅行を敢行、英国・ポルトガル・スペイン・フランスの各都市を訪問した[12]。帰米後、キリスト教の新聞The Missionary Herald や知人を通じて、日本で父・善之輔がアメリカ人宣教師マーティンによる教義解説書『天道溯原』[13]を読んだことをきっかけに改宗し、洗礼を受けたことを知らされた。(Chapter XV-XVI)
日清戦争後、日本のハワイ移民とそのアメリカ西海岸への流入が、いわゆる黄禍問題として懸念され始めたことを背景に、小谷部は仏教徒(偶像崇拝者)の危険からアメリカを守るという使命感からハワイアン・ボードへ申請、ハワイ伝道協会 Hawaiian Evangelical Association での雇用が決まると、恩師ランキン博士の手配により、出発前に第一会衆派教会で千人以上の聴衆が見守る中で按手礼を受け正式に牧師となった。赴任のため鉄道で大陸横断する途上、シカゴやアメリカ先住民が住むユタ州オグデン、モルモン教の拠点である同州ソルトレイクシティ等に立ち寄り、1895年6月にサンフランシスコからハワイ共和国のオアフ島ホノルルへ渡った。(Chapter XVIII- XIX)
ホノルルではドール大統領及びアメリカ人の各界有力者と面会、「日本人の血を引くリトル・ヤンキー a Japanese-blooded little Yankee」の手を借りずともハワイは優れたキリスト者達によって守られていることを知り、一旦は帰米を考えたが雇用契約により残留せざるをえなかったという。マウイ島パイア耕地の教会を拠点[15]として活動中、父・善之輔から病気療養としてハワイ移住の意思が伝えられ、小谷部は同地で家屋・庭園購入の準備を進めたが、1896年に善之輔が日本で急死、失意のなかで、翌1897年10月にアメリカ本土へ戻った。再びイェール大学神学校の大学院に籍を置く一方[16]、1898年にはハワード大学で修士号 M.A. を取得した[17]。この期間は主に社会学と神学のより高度な分野、さらにアイヌと境遇を同じくするアメリカ先住民の研究に従事したとされる。(Chapter XX、以上)
1898年、ピルグリム・プレス社より自伝 A Japanese Robinson Crusoe を出版。ニューヨークの週刊誌 The Independent でも紹介されている(同年7月28日号文学欄[18])。
^1914年版のイェール大学現存卒業生名鑑でも、小谷部は神学士(B.D.)としてのみ掲載されている(Directory of the Living Graduates of Yale University. Meriden, Conn.: The Curtiss-Way Co.,1914, p387参照)。なお、小谷部本人は1930年代の講演会で、日本の学位令について以下のように批判している。「序でに日本の学位の事に就ても一言国家に忠告させて頂きたい。明治年代に制定された学位令は、西洋の翻訳であるが、一片の論文を提出した人や試験に通過した人に最高学位たる博士号を浸りに授ける事は間違って居る。(中略)明治年代に…制定された博士号なるものは、欧米の大学で論文提出者か又は二ヶ年以上大学院で学び、試験に通過した人に授与するドクトルの翻訳の様に仄聞せしが…ドクトルとは学者とか学士とか或は先生とか云ふ意義のもので、断じて日本古来の博士に相当した最高学位ではない。欧米の大学で授ける真正の博士号といふものはドクトル・オフ・ダブル・ロース、即ち省略して LLD というものであって、之は国家とか学術とかに大功労ある人に羊皮の学位記章に制服を添へて授与するものである。日本人で此の名誉ある LLD 最高学位即ち博士号を外国の大学から授けられた人は、伊藤博文公(エール大学)と金子堅太郎子(ハーヴァード大学)の外に僅々指を屈するにすぎない」『義経と満洲』165-168頁。
^『義経再興記』の出版は1885年であり、時期的に食い違いがある。なお、小谷部は "The Revival of Yoshitsune" と直訳(Revival はプロテスタントにおいて熱狂的な信仰復興運動も含意)しているが、末松謙澄による英語論文の原題は "The identity of the great conqueror Genghis Khan with the Japanese hero Yoshitsuné"。参考までに『純日本婦人の俤』40-41頁によれば、 「明治の初年末松謙澄氏が、英国ケンブリッヂ大学に在学中、ロンドン図書館に於て、日本歴史の研究家蘭人シイボルト博士の著書中に、義経日本を逃れて大陸渡航の学説あるを閲し、之を参酌して卒業論文を書きたるものが日本に伝わり、当時慶応義塾の学生にてありし内田弥八と云ふ人が右の論文を和訳し、之に『義経再興記』と命名して東京日本橋本石町上田屋書店より発行(以下略)」。シーボルト及び末松謙澄の所論については義経=ジンギスカン説を参照。
^小谷部は出典を明記していないが、アイヌが登場するChapter IIIにおいて、アイヌは古代ユダヤ人の子孫と推定するウィリアム・グリフィス(ミカドの帝国 The Mikado's Empire, 1876)、及びスミソニアン協会に人類学的調査に基づき報告したロミン・ヒッチコック Romyn Hitchcock(日本・蝦夷のアイヌ The Ainos of Yezo, Japan, 1890)の記述を引用している。
^小谷部は "a violent political outbreak at the Bonin Islands" として事件の概要を追記しているが、これに相当するのは「小笠原島兇徒聚衆事件」と思われる。事件発生は1885年4月初旬、東京始審裁判所及び警視庁関係者一行が矯竜丸で横浜を出航し、父島に到着したのは6月15日、予審で決した被告8名を伴い7月1日に同島を発ち、7月4日に品川に帰着したという(手塚豊「明治十八年・小笠原島兇徒聚衆事件裁判考」『法学研究』第61巻8号、慶応義塾大学法学研究会、1988年8月)。
^帆船トマス・ペリー号は1879年製の総トン数1,192t・全長198m・幅37.5m、1905年にロシア船籍となった。Wallace, Frederick William (1929), Record of Canadian Shipping. Toronto: Musson Book Co., p.271に依る。
^英名 Hampton Normal and Agricultural Institute(学校通称は、ハンプトン農工業学校 Hampton Agricultural and Industrial School)。なお、同校には大山捨松や津田梅子との知遇を得て来日したアリス・ベーコン(1880年代に華族女学校、1900年代には女子高等師範学校と津田が創設した女子英学塾の英語教師として来日)が教員を務めていた。小谷部は実名を明記していないが、「キリスト教国アメリカの賜物」として次のように紹介している。"One of the school dames went to Japan and did splendid work among our women and for the empress. She came back to her old school in triumph, and wrote an admirable book on our girls and women. She was indeed a heroine, and certainly she is a product of Christian America."
^入学時は師範・工業学部 Normal & Industrial Dept. で、卒業時は神学部 Dept. of Theology に所属(1890-91年及び1893-94年の Catalog of the Officers and Students of Howard University 参照)。
^Catalogue of Yale University 1897-98. New Haven: Tuttle, Morehouse and Taylor Press, 1897, p.396参照。
^Howard University Alumni Directory 1870-1919, p.41参照。
^"A Japanese Robinson Crusoe. By Jenichiro Oyabe. (Chicago: The Pilgrim Press. $1.00.) If this book's contents are the record of truth, and we are assured they are, Mr. Oyabe, the author, is a very remarkable young man. It is long since we read a personal story of mere immediate interest. Not that it is remarkable as literature; it can lay no claim to such distinction; but the simple account of adventures by a Japanese youth, wandering in search of an outlet for his awakened aspirations, is singularly like truth and life frankly and sincerely pictured. The whole story is one of the many illustrations of what Christianity can do in awakening the dormant energies of an individual or a race."