小能登呂村(このとろむら)は、日本の領有下において樺太に存在した村(指定町村)。
小能登呂という地名は、アイヌ語の「ノツ・オロ」(岬の所)による[2]。
なお、ロシア連邦側では同地周辺をコストロムスコエ(ru:Костромское_(Сахалинская_область))と称している。
概要
間宮海峡に面していた。村名の由来は小能登呂岬による。
古くは漁村であったが、主に高知県出身者の移住により大規模な農業経営が行われるようになった。交通機関としては樺太西線の駅が存在した。
歴史
村内の地名
大字「上能登呂」
大字「下能登呂」
大字「仁多須」
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大字「登富津」
- 富原(とみはら)
- 登富津(とふつ)
- 登富津澤
- 飛岸(とびきし)
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地域
教育
以下の学校一覧は1945年(昭和20年)4月1日現在のもの[4]。
- 樺太公立小能登呂第一国民学校
- 樺太公立小能登呂第二国民学校
- 樺太公立小能登呂第三国民学校
- 樺太公立登富津国民学校
- 樺太公立仁多須国民学校
脚注
- ^ a b c 『樺太・小能登呂村の沿革史』高知小野登呂会、1992年5月20日。
- ^ 南樺太:概要・地名解・史実 p.335
- ^ 南樺太:概要・地名解・史実(西村いわお・著、高速印刷センター内出版部 1994年)より。
- ^ 北海道立教育研究所『北海道教育史 地方編2』(1957年)p. 1684
関連項目