宮宿(みやじゅく)は、山形県西村山郡朝日町に存在する大字で、村山郡末吉良村および村山郡中郷村(中江とも)のち村山郡宮宿村および村山郡東助巻村・西助巻村のち村山郡助巻村、旧西村山郡東五百川村大字宮宿、旧西村山郡宮宿町大字宮宿に相当する。郵便番号は990-1442[1]。古くから、五百川地方の中心的地域であり、旧西村山郡東五百川村および旧西村山郡宮宿町、西村山郡朝日町の役場がおかれた。最上川東岸一帯の東五百川地区(後述)に含まれる[3][4]。
縄文時代中期に集落(現在の上ノ台遺跡)が形成される[5]。
古くは最上郡八木郷に属していたとされ、平安時代後期になると、八木郷の行政単位としての機能は消滅し、荘園公領制の成立に伴い、村山郡南西部を占める寒河江荘の支配下になった[6][7][5]。戦国大名である最上氏の支配下になり、柴田七郎兵衛家二十五代吉康により、中郷本田堰が作られ、熊野神社・豊龍神社の林を切り開き開田し、宮宿村の前進となる中郷村が形成されたことが、現在ある集落の始まりとされている[8]。中郷本田堰は送橋の上流、水本の上芦沢の三ノ沢橋下手に堰口を設け、螺倉山の山腹を縫って約四キロメートル流れて新宿へと至る水路である。江戸期になると、現在の宮宿にあたる末吉良村および東助巻村、中郷村は、杉山村や松原村、宇津野村、大滝村、四野沢村、新宿村、古槇村[注 1]、送橋村、上足沢村[注 2]、下足沢村[注 3]、摂待村、大巻村、和合村とともに村山郡東五百川郷に属し、同じく現在の宮宿にあたる西助巻村は松程村や太郎村、大船木村、今平村、八ツ沼村、能中村、高田村、長沼村、石須部村、立木村、白倉村、夏草村、水口村、赤釜村、一石楢村、須野瀬村、新崩村、西船渡村、雪谷村とともに西五百川郷に属した[9]。1622年(元和8年)まで山形藩による支配を受けていたが、最上氏が最上騒動により改易になると、左沢藩(藩主は酒井直次)領となったのち、1631年(寛永8年)に幕府領庄内藩預り地、1632年(寛永9年)庄内藩領、1649年(慶安2年)より、出羽松山藩左沢領として明治維新を迎えた[4][10]。江戸期には中郷村は上宮宿村・下宮宿村・前田沢村の三集落にわかれ、近隣4ヶ村とともに中郷組を組織、長岡戸右衛門、柴田七郎兵衛、鈴木惣十郎、今井治郎三郎らが大庄屋を勤めた[10]。村高等は慶安元年の名寄帳では605石余、宝暦8年の左沢御領知村高組訳書抜帳では679石余、天保郷帳では679石余、村山石高帳では天保13年674石余、旧高旧領では687石余、元禄3年の中郷村御水帳では、655石余、うち上宮宿村228石余、下宮宿村115石余、前田沢村311石余となっている[8][10]。中郷村以外の、現在の宮宿を構成する村々の石高は1758年(宝暦8年)の左沢御領知村高組訳書抜帳によれば、末吉良村が212石余、東助巻村が104石、西助巻村が60石余であった[11]。田畑は用水は溜井と芦沢の水をひいたが、たびたび旱損に悩まされていたとされ、農間余業として、男は薪をとり、女は太布をおり、青苧を作っていた[11]。天保年間以後、桑市が開かれるようになり、1925年(大正14年)に桑市が廃止されるまで、養蚕・青苧といった産業が盛んであった[12]。青苧は最上青苧(五百川苧)のブランド名で品質・生産量ともに全国有数であり、送橋口から、大蕨村(現在の東村山郡山辺町)を経て、船町(現在の山形市)より最上川舟運を利用し、酒田の買次問屋鐙屋惣左衛門により、上方や越中国へと送られるなどして、青苧は当域を含め、五百川地方の農民の最大の換金作物となった[4][13]。養蚕が盛んであったことから、明治中期には製糸も盛んとなり、宮宿には丸五器械が工場をおき、新宿の良進社および上郷の松尾器械、大谷の益進社、松程の共同製糸場とともに、町の産業を支えた[4]。1875年(明治8年)に中郷村から宮宿村へと改称し、1881年(明治14年)に末吉良村と助巻村を合併した[14]。1889年(明治22年)に町村制が施行されると、宮宿村、新宿村、雪谷村、四野沢村、大滝村、上郷村、杉山村、針生村、古真木村、送橋村、下芦沢村、水本村、和合村の13ヶ村が合併し、東五百川村が成立し、東五百川村役場が域内に設置された[15]。戦後は、人口減少が問題となり、朝日町は農業構造改善事業の一環で、宮宿を含め、域内各地に農業団地が造成され、宮宿にはブドウの農業団地が造成された[12]。
北は四ノ沢、南は新宿や雪谷、東は古槇や送橋、西は最上川をはさんで三中と接する。市街地は北西部に集中しており、東部は山地、南部は森林と田畑が展開している。
域内の西部を最上川が流れており、五百川渓谷という急流を形成している[4]。五百川渓谷は西置賜郡白鷹町荒砥から西村山郡大江町左沢まで南北にわたる渓谷で1694年(元禄7年)に米沢藩の商人である西村久左衛門が大瀬と黒滝の急灘を治めて、舟筏の往来が開始された[13]。五百川渓谷の先行性河流は下刻とともに侵食も行って、沿岸に2、3の段丘をのせた低地を形作るため、宮宿には環流丘陵状の段丘残片が確認されている[4]。
西村山郡東五百川村大字宮宿にはあったが、2023年5月現在の西村山郡朝日町宮宿にはない小字を列挙する[17]。
域内に鉄道は走っていないが、一時期、大江町左沢と白鷹町荒砥を結び、当域を走る左荒線が計画されていた[4]。なお、最寄駅はJR左沢線の羽前山辺駅や左沢駅が挙げられる。
東五百川地区(ひがしいもかわちく)は朝日町を構成する三地区の一つであり、旧東五百川村の大字針生(現在の白鷹町針生)をのぞいた地域、即ち、現在の朝日町のうち最上川東岸に位置する地域に相当し、現在の宮宿・新宿・雪谷・四ノ沢・大滝・上郷・杉山・古槇・送橋・下芦沢・和合・和合平がこらに含まれる。中心的地区は、朝日町の行政および経済の中心を担っている宮宿である。