奥平 昌邁(おくだいら まさゆき)は、江戸時代後期の大名。豊前国中津藩第9代(最後)の藩主。官位は従五位下・美作守。中津藩奥平家13代。伯爵。
生涯
伊予国宇和島藩主・伊達宗城の四男として誕生した。文久3年(1863年)5月、奥平昌服の養子となる。慶応4年(1868年)5月、昌服の隠居により家督を相続する。明治2年(1869年)、明治維新の精神に従い、斬新的な藩政改革に取り組んだ。特に人材登用などでは選挙法を採るなど、家格に基づく世襲法を打破した新しい方法を取り入れた。同年、版籍奉還により中津藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県後、維新の功により賞典禄2000両を受けて伯爵となる。
その後、江戸に東上して慶應義塾に入学した。元藩士であった福澤諭吉、小幡篤次郎にアメリカ留学を勧められ、ニュージャージー州ニューブランズウィック地区に留学する。明治5年(1872年)2月20日の福澤英之助宛福澤書翰には、「昨日アメリカより手紙参、殿様も甚さんもぶじ、ソルレイキと申処迄参候よし」とある。この書翰に出てくる「殿様」が昌邁公で、「甚さん」は留学の随行者の小幡甚三郎である。
帰国後、東京府会議員となり、翌年東京府芝区長に就任する。また福澤、小幡の勧めにより藩校・進脩館の後身校「中津市学校」を設立し、教員を慶應義塾の中津藩出身者から派遣するなど、旧中津藩に優れた足跡を残した。
一方、この頃には奥平家の家計は傾きつつあり、福沢や小幡の協力の下で家財の財政改革を進めようとしたが、都下の生活では「奢侈の風」を催して意の如くなるものではなかった[1]。
1884年(明治17年)7月、伯爵に叙されたが、11月に米国留学時にかかった病が元で死去した。翌1885年(明治18年)1月、長男の昌恭が8歳で襲爵した。
栄典
系譜
脚注
関連項目
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官選 |
- 相原安次郎1878.11-1880.4
- 前田利充1880.5-1881.6
- 奥平昌邁1881.6-1882.11
- 渡辺清1883.1-1883.7
- 梅田義信1883.7-1885.7
- 久住秋策1885.7-1889.5
- 丸山正盛1889.7-1890.5
- 鈴木良輔1890.5-1895.9
- 川崎実1895.9-1908.3.1
- 風祭甚三郎1908.3.1-1911.6.1
- 土方篠三郎1911.6.1-1914.7.1
- 長岡往来1914.7.1-1915.1.1
- 古橋幸正1915.1.1-1922.1.1
- 小宮山信治1922.2.8-1929.3.4
- 宮川宅次1929.3.4-1930.4.5
- 船津新四郎1930.4.5-1933.11.2
- 黒川一治1933.11.2-1935.8.2
- 筒井茂也1935.8.2-1937.3.24
- 守屋正二1937.3.24-1938.10.19
- 宮沢文作1938.10.20-1942.9.2
- 伊藤俊一1942.9.3-1942.12.11
- 高田賢治郎1942.12.12-1945.12.23
- 井手光治1945.12.24-1947.3.14(廃止)
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カテゴリ |
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1947年3月15日合併 |
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合併後 |
公選 |
- 井手光治1947.5.3-1948.12.7
- 矢田直三1949.2.12-1949.10.12
- 中西清太郎1949.12.5-1953.12.4
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区長選任制 |
- 中西清太郎1953.12.25-1957.12.24
- 小田清一1957.12.28-1975.4.26
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公選 |
- 川原幸男1975.4.27-1985.9.24
- 区長職務代理 稲葉茂1985.9.25-1985.10.19
- 区長職務代理 足利温司1985.10.20-1985.11.16
- 山田敬治1985.11.17-1992.5.5
- 菅谷真一1992.6.28-2000.6.27
- 原田敬美2000.6.28-2004.6.27
- 武井雅昭2004.6.28-2024.6.27
- 清家愛2024.6.28-
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