壬生氏(みぶし)は、日本の氏族のひとつ。本姓は小槻宿禰。戦国時代、下野国壬生・鹿沼を中心に勢力を張った武家。
出自
室町時代に京都の地下官人家・壬生家(小槻氏)から出た、壬生胤業(壬生晴富の弟)を祖とする[1]。
また、壬生胤業を宇都宮氏庶流横田氏の一族である壬生朝業の末裔とし、壬生朝業を壬生氏の祖とする説もある[3]。
歴史
胤業は公家(地下家)でありながら武芸を好み、諸国に下向した末に寛正3年(1462年)下野国で壬生氏を興したとされる。
子の綱重は壬生城を築城して拠点とし、下野国の有力氏族宇都宮氏に仕えた。主君宇都宮忠綱の命で付近の豪族・鹿沼氏を降し、鹿沼の地の支配を任されて居城を鹿沼城に移した。さらに勢力を拡大し日光山領までも支配下とした。
綱房の代では、宇都宮忠綱と芳賀興綱の間での宇都宮氏内での内紛(宇都宮錯乱)で落ち延びた忠綱を保護し、興綱を自害に追い込み権勢を強めた。忠綱の子の尚綱が天文18年(1549年)喜連川五月女坂の戦いで討死すると、子の伊勢寿丸(広綱)と芳賀高定を宇都宮城から追い出し、乗っ取ることに成功する。そして宇都宮城を芳賀高照との共同統治とし、さらに壬生城に嫡男の綱雄を、鹿沼城には次弟の周長を置き周辺を固める。しかしながら弘治元年(1555年)高照は謀殺され、同年綱房も急死した(高定による謀殺とも)。綱雄が跡を継ぐが、同弘治3年(1557年)宇都宮城を奪還された。
鹿沼城に退いた後、綱雄は宇都宮氏からの独立を画策する。これには関東における後北条氏の勢力拡大が背景にあり、綱雄は後北条氏と手を結ぼうとしていた。一方、叔父・周長(綱房の弟)は一貫して宇都宮氏への従属姿勢を取り、綱雄と対立する。そして天正4年(1576年)綱雄は暗殺され周長が鹿沼城主となる。
同年、周長は続いて綱雄の子・義雄の籠る壬生城を攻めたが、敗北し殺害される。当主となった義雄は鹿沼城に移り、後北条氏と結んで宇都宮氏に対抗した。これによりこの地は、後北条氏・壬生氏と宇都宮氏・佐竹氏・結城氏との争乱に明け暮れる。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の時、宇都宮氏・佐竹氏は豊臣軍に味方したが、義雄は北条氏に味方して小田原城に立て籠もった。しかしながら小田原城は落城、義雄はその直後に病死(妹婿の皆川広照による毒殺とも)した。義雄には伊勢亀という娘しかおらず男子の跡継ぎがなかったため、壬生氏は所領を没収され滅亡した。
系譜
- 実線は実子、数字は当主就任順。
脚注
- ^ 『壬生家譜』東大史料編纂所蔵
- ^ 『宇都宮氏略系図』 。
参考文献
- 系譜参考
関連項目
外部リンク