土佐 光成(とさ みつなり、正保3年12月20日(1647年1月25日) - 宝永7年3月21日(1710年4月19日))は、江戸時代初期から中期にかけて活躍した土佐派の絵師。官位は従五位下・形部権大輔。
経歴
土佐派を再興した土佐光起の長男として京都に生まれる。幼名は藤満丸。「光成」は「みつなり」と読むのが通例だが、「みつしげ」とも称される。父から絵の手ほどきを受ける。延宝9年(1681年)に跡を継いで絵所預となり、正六位下・左近将監に叙任される。禁裏への御月扇の調進が三代に渡って途絶していたが、元禄5年(1692年)東山天皇の代に復活し毎月宮中へ扇を献ずるなど、内裏と仙洞御所の絵事御用を務めた。元禄9年(1696年)5月に従五位下、翌月に形部権大輔に叙任された後、息子・土佐光祐(光高)に絵所預を譲り、出家して常山と号したという。弟に、同じく土佐派の土佐光親がいる。墓所は左京区知恩寺。
画風は父・光起に似ており、光起の作り上げた土佐派様式を形式的に整理を進めている。『古画備考』では「光起と甲乙なき程」と評された。
作品
官歴
『地下家伝』による。
脚注
- ^ 茨木市史編さん委員会 『新修茨木市史 第九巻 史料編 美術工芸』 茨木市、2008年3月31日、口絵18、p.31。
- ^ 香川県立博物館編集・発行 『高松松平家歴史資料目録2 絵画1』 2003年3月31日、pp.12-13。
- ^ 京都市文化市民局文化部文化財保護課編集発行 『京都市文化財ブックス第11集 京都近世の肖像画』1996年2月、p.44。
- ^ 藤本裕二 「黄檗山萬福寺所蔵・土佐光成筆「後水尾法皇像」について ─法皇への追慕 萬福寺と土佐派の伝統─」(黄檗文化研究所編集 『黄檗文華』第130号 2009-2010、黄檗山萬福寺文華殿発行、2011年7月、pp.67-75。
- ^ 敦賀市立博物館編集・発行 『館蔵逸品図録』 1995年1月4日、第14図。
- ^ 和田琢磨「翻刻 楠妣庵観音寺蔵『楠公一代絵巻』上巻」『亜細亜大学学術文化紀要』第21号、亜細亜大学総合学術文化学会、2012年、96-87頁、ISSN 1347-0248、NAID 110009422798。 ; 和田琢磨「翻刻 楠妣庵観音寺蔵『楠公一代絵巻』下巻(内海二郎教授 張祥義准教授 中川隆准教授退職記念号)」『亜細亜大学学術文化紀要』第22巻、亜細亜大学、2012年、114-107頁、ISSN 13470248、NAID 110009528393。 。同「近世における軍記物語絵巻の一様相 ─『平家物語絵巻下絵』『根元曾我物語絵巻』『楠公一代絵巻』」(人間文化研究機構 国文学研究資料館編 『絵が語る日本 ニューヨーク スペンサー・コレクションを訪ねて』 三弥井書店、2014年3月、pp.253-258。
- ^ 川中島合戦図屏風 文化遺産オンライン
- ^ 高橋修「ミュージアム中仙道所蔵 土佐光成筆「川中島合戦図屏風」の図像的特徴と成立背景--「戦国合戦図屏風」と公武協調の時代 (特集:上杉謙信の総合的研究)」『新潟県立歴史博物館研究紀要』第5号、新潟県立歴史博物館、2004年3月、17-23,折込図1p、ISSN 13454862、NAID 40006345409。 ; 高橋修監修 『歴史群像シリーズ特別編集 決定版 図説・戦国合戦図屏風』 学研、2004年、20-23頁参照。ISBN 978-4-05-402579-0
- ^ 『根津美術館蔵品選 書画編』 2001年、p.169、ISBN 4-930817-28-5
- ^ 波太神社所蔵 三十六歌仙扁額
- ^ 石川県立歴史博物館編集・発行 『徳川将軍家と加賀藩 ─姫君たちの輝き─』 2010年9月23日、p.37。
- ^ 『三重県の文化財保護―平成八年度―』 三重県教育委員会、1997年。
- ^ 『伊賀市史』第一巻 通史編古代中世、2011年。
- ^ 三重県編集発行 『三重県史 別編 美術工芸(解説編)』 2014年3月31日、pp.153-154。
- ^ 公益財団法人 日本習字教育財団 観峯館編集・発行 『観峯館 平成二十八年度特別企画展 「開山寂室元光禅師650年遠諱 永源寺に伝わる書画」』 2016年9月17日、pp.19,33,41。
参考文献
関連項目