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艦歴
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計画 |
大正5年度計画
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起工 |
1917年4月25日
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進水 |
1917年12月1日
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就役 |
1919年9月18日
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除籍 |
1932年4月1日
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その後 |
1932年4月1日廃潜水艦1号と仮称
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性能諸元
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排水量 |
基準:720トン 常備:735トン 水中:1,000トン
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全長 |
69.19m
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全幅 |
6.35m
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吃水 |
3.43m
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機関 |
ズルツァー式[注 1]2号ディーゼル2基 電動機、2軸 水上:2,600馬力 水中:1,200馬力
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速力 |
水上:18.2kt 水中:9.1kt
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航続距離 |
水上:10ktで4,000海里 水中:4ktで85海里
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燃料 |
重油:60トン
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乗員 |
46名
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兵装 |
28口径8cm高角砲1門 45cm魚雷発射管 艦首4門、舷側2門 魚雷10本
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備考 |
安全潜航深度:30m
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呂号第十二潜水艦(ろごうだいじゅうにせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂十一型潜水艦(海中1型)の2番艦。竣工時の艦名は第二十潜水艦。
艦歴
1917年(大正6年)4月25日、呉海軍工廠で起工。同年12月1日進水。1919年(大正8年)9月18日竣工。竣工時の艦名は第二十潜水艦、二等潜水艦に類別。1924年(大正13年)11月1日、呂号第十二潜水艦に改称。1932年(昭和7年)4月1日に除籍され、廃潜水艦1号と仮称。
就役直後から機関の故障が頻発し、1921年(大正10年)の台湾方面長期巡航訓練では途中で落伍した。
歴代艦長
※艦長等の出典:[6]
艦長
- 大崎義雄 少佐:1920年12月1日[7] - 1921年4月1日[8]
- (心得)荻野仲一郎 大尉:1921年4月1日[8] - 1922年3月1日[9]
- (心得)大橋龍男 大尉:1922年3月1日 - 12月1日
- (心得)中邑元司 大尉:1922年12月1日 - 1924年5月31日
- (心得)上条深志 大尉:1924年5月31日 - 1925年7月1日
- 関野明 少佐:1925年7月1日[10] - 1925年12月1日[11]
- 篠田清彦 大尉:1925年12月1日[11] - 1926年4月1日[12]
- (兼)関禎 少佐:1926年4月1日 - 9月15日[13]
脚注
注釈
出典
- ^ 『官報』。[要文献特定詳細情報]
- ^ 『官報』第2501号、大正9年12月2日。
- ^ a b 『官報』第2598号、大正10年4月2日。
- ^ 『官報』第2872号、大正11年3月2日。
- ^ 『官報』第3857号、大正14年7月2日。
- ^ a b 『官報』第3982号、大正14年12月2日。
- ^ 『官報』第4080号、大正15年4月2日。
- ^ 『官報』第4220号、大正15年9月16日。
参考文献