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艦歴
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計画 |
大正6年度計画[1]
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起工 |
1920年3月1日[1]
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進水 |
1921年9月17日[1]
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就役 |
1922年3月9日[1]
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除籍 |
1932年4月1日[1]
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その後 |
1933年12月15日雑役船編入、橋船に指定[2] 終戦まで佐世保で使用[2]
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性能諸元
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排水量 |
基準:689トン 常備:740トン 水中:1,047トン
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全長 |
65.58m
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全幅 |
6.07m
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吃水 |
4.04m
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機関 |
フィアット式ディーゼル2基2軸 水上:2,600馬力 水中:1,200馬力
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速力 |
水上:14.27kt 水中:8.01kt
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航続距離 |
水上:10ktで3,500海里 水中:4ktで75海里
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燃料 |
重油
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乗員 |
43名
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兵装 |
機銃1挺 45cm魚雷発射管 艦首3門、艦尾2門 魚雷8本
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備考 |
安全潜航深度:30.5m
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呂号第五潜水艦(ろごうだいごせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂三型潜水艦(F2型)の3番艦。竣工時の艦名は第三十三潜水艦。
艦歴
1920年(大正9年)3月1日、神戸川崎造船所で起工。1921年(大正10年)9月17日進水。1922年(大正11年)3月9日竣工。竣工時の艦名は第三十三潜水艦、二等潜水艦に類別[1]。1924年(大正13年)11月1日、呂号第五潜水艦に改称[1]。1932年(昭和7年)4月1日に除籍。
1933年(昭和8年)12月15日、雑役船に編入され、橋船となった。終戦まで佐世保で使用された。
呂一型潜水艦よりも速力が3ノット低下し、艦隊に随伴する能力がないと判断され、鎮守府の警備艦として使用された[3]。
歴代艦長
※艦長等は『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
艤装員長
- (心得)原田文一 少佐:1921年8月1日[4] -
艦長
- 原田文一 少佐:1922年3月9日[5] - 9月20日[6]
- 横山菅雄 少佐:1922年9月20日 - 1923年3月10日
- (心得)森徳治 大尉:1923年3月10日 - 10月20日
- (心得)内藤淳 大尉:1923年10月20日[7] - 1924年5月30日[8]
- (心得)矢野美年 大尉:1924年5月30日[8] - 1925年12月1日[9]
- 大和田昇 大尉:1925年12月1日 - 1926年12月1日
脚注
- ^ a b c d e f g 『日本海軍史』第7巻、366-367頁。
- ^ a b 『写真日本海軍全艦艇史』資料編「主要艦艇艦歴表」16頁。
- ^ 『日本海軍の潜水艦』23頁。
- ^ 『官報』第2701号、大正10年8月2日。
- ^ 『官報』第2880号、大正11年3月11日。
- ^ 『官報』第3043号、大正11年9月21日。
- ^ 『官報』第3350号、大正12年10月22日。
- ^ a b 『官報』第3530号、大正13年5月31日。
- ^ 『官報』第3982号、大正14年12月2日。
参考文献
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。