北花内大塚古墳(きたはなうちおおつかこふん)は、奈良県葛城市北花内にある古墳。形状は前方後円墳。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「埴口丘陵(はにぐちのおかのみささぎ)」として第17代履中天皇皇孫女の飯豊天皇(飯豊青皇女)の陵に治定されている。
概要
奈良県西部の奈良盆地南西縁、葛城山麓の平野部に築造された古墳である。現在は宮内庁治定の皇族陵として同庁の管理下にあるが、これまでに同庁による調査などが実施されている。
墳形は前方部が大きく発達した前方後円形で、前方部を南西方に向ける。段築・造出の有無は不明。墳丘表面では円筒埴輪(朝顔形埴輪含む)・形象埴輪(盾形埴輪)のほか、コウヤマキ製の笠形木製品が検出されている。墳丘周囲には周濠(幅10-15メートル)が巡らされる。埋葬施設および副葬品は明らかでない。
この北花内大塚古墳は、古墳時代後期初頭頃の築造と推定される。葛城地方では室宮山古墳(御所市室)に始まる首長墓系譜が御所地域から忍海地域に移る様相を示すが、その中で本古墳は忍海地域に移動後の屋敷山古墳・火振山古墳の後続首長墓に位置づけられる。被葬者は明らかでないが、前述のように現在は宮内庁により第17代履中天皇皇孫女の飯豊天皇(飯豊青皇女)の陵に治定されている。
遺跡歴
墳丘
墳丘の規模は次の通り。
- 墳丘長:90メートル
- 後円部 直径:50メートル
- 前方部 幅:70メートル
墳丘は近世に神社が遷座された際に大きく改変を受けている。
被葬者
北花内大塚古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第17代履中天皇皇孫女の飯豊天皇(飯豊青皇女:いいとよのあおのひめみこ)の陵に治定している[5][6]。飯豊青皇女の墓について『古事記』に記載はないが、『日本書紀』顕宗天皇即位前紀では「葛城埴口丘陵」と見える。『延喜式』諸陵寮では遠墓の「埴口墓」として記載され、大和国葛下郡の所在で、兆域は東西1町・南北1町で、守戸3烟を毎年あてるとする。
飯豊青皇女(飯豊女王/飯豊郎女/飯豊王/青海皇女/青海郎女/忍海部女王/忍海郎女)は、清寧天皇(第22代)の崩御後に億計王(仁賢天皇)・弘計王(顕宗天皇)が皇位を譲り合ったため、忍海角刺宮(葛城忍海之高木角刺宮、伝承地は葛城市忍海の角刺神社)で政務をとったとされる人物である。『日本書紀』では清寧天皇5年11月に崩御し、『本朝皇胤紹運録』では45歳であったとする。飯豊青皇女が即位したかは明らかでないが、『日本書紀』では「飯豊青尊」として墓所も「陵」と記す(通常の皇族墓は「墓」)ことから、古くから歴代天皇に位置づける説が生じており、『扶桑略記』・『本朝皇胤紹運録』では「飯豊天皇」と記載されている。本陵においても元治元年(1864年)に『日本書紀』に従って「陵」と定められており、これが現在まで踏襲されている。
脚注
- ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)10コマ。
- ^ 『陵墓地形図集成 縮小版』 宮内庁書陵部陵墓課編、学生社、2014年、p. 405。
参考文献
(記事執筆に使用した文献)
関連文献
(記事執筆に使用していない関連文献)
- 「埴口丘陵外堤の樋管改修箇所の調査」『書陵部紀要 第31号』宮内庁書陵部、1980年。
- 「埴口丘陵外堤護岸工事区域の調査」『書陵部紀要 第32号』宮内庁書陵部、1981年。
- 「埴口丘陵整備工事区域の調査」『書陵部紀要 第34号』宮内庁書陵部、1983年。
- 「飯豊天皇 埴口丘陵見張所改築箇所の立会調査」『書陵部紀要 第52号 (PDF)』宮内庁書陵部、2001年。 - リンクは宮内庁「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」。
- 『書陵部紀要 第58号 (PDF)』宮内庁書陵部、2007年。 - リンクは宮内庁「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」。
- 「飯豊天皇 埴口丘陵墳塋護岸その他整備工事に伴う事前調査」、「飯豊天皇陵にみられる石材の石種と採石地」。
- 『書陵部紀要 第59号 (PDF)』宮内庁書陵部、2008年。 - リンクは宮内庁「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」。
- 「飯豊天皇 埴口丘陵墳塋護岸その他整備工事に伴う立会調査」、「飯豊天皇 埴口丘陵より出土した倒木の樹種」。
関連項目
外部リンク
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