八野 英史(はちの ひでし、1963年2月25日 - )は、日本のネオアコ・バンド b-flower のヴォーカリストおよびギタリスト、作詞家、作曲家。
略歴
音楽性
他アーティストへの提供曲
エピソード他
- 曲作りに関しては、何らかの「テーマ」ではなく、画像や言葉の切れはしなどの「イメージ」から始まると、うまくいく場合が多くいという。実例としては、1st『ペニーアーケードの年』収録の『そこは君の場所ではない』および 2nd『ムクドリの眼をした少年』収録の『孤立するピーターのくるぶし』(当該項をそれぞれ参照のこと)。
- 作詞に関しては「自分の実体験をそのままに近い形で唄にすることを極端に嫌うタイプ」で、おそらく唯一の例外は EP『Nobody Knows This Is Nowhere』収録の『動物園に行こうよ』(当該項を参照のこと)。
- 好きな音楽として傾倒する欧米ネオアコバンドの中でも、「『特別好き』 ランクの上位にずっと君臨している」のはトラッシュキャン・シナトラズ。[7]
- 非常に「思い入れのある作品で、25年以上なかなかこの音の代用品は見つからない」とするアルバムは、トレイシー・ソーン(Tracy Thorn)の『遠い渚』(A Distant Shore)』。[8]
- 自主レーベル立ち上げを「インスパイア」された英国インディペンデント・レーベル Sarah Records の音楽には、「何か(を呼び起こしてくれるような)特別な瑞々しさをたたえているものが多くて好き」であるとのこと。[9]
- その他に影響を受けたミュージシャン・バンドは枚挙にいとまがないが、「ギター、ベース、ドラム、ボーカルという基本的なロックバンドとしては、一番好きなのは初期のザ・フー」。[10]
- 中高生時代は洋楽ロックに傾倒。当初は特に初期のツェッペリンが好きで、「学校から帰って来るとすぐ、窓もカーテンも閉め切ってツェッペリンのレコードを大音量でかけ、大声で歌っていた」。[11]
- 高校三年生から大学一年生にかけて、ローリング・ストーンズをはじめとする「R&Bに影響を受けたイギリスのグループに狂った」。特に高三の頃は、『ジャンピング・ジャック・フラッシュ』のビデオを何百回と見ては、ミック・ジャガーの口の開け方や腕の伸ばし方、足の運び等の動きを必死でコピーしていた、という。[12][13]
- 18歳の時に加入したバンドは、ストーンズやザ・フーのコピーバンドで、八野の役割は「もちろん」ミック・ジャガー。「『アイワズボーン エナクロスファイヤ ハリケェイーン』と唇を必死で横に広げながら、ハンドマイクでステップを踏みながら歌っていた」。レパートリーは『悪魔を憐れむ歌』や『Under My Thumb』など。しかし「僕の声でストーンズはやはり無理があるなと気づいたのと、人間的に決定的にワイルドさに欠けていることを自覚するにつれ、だんだん『演る』のが恥ずかしく」なり、「『憧れの存在』として置い」ておくことにした。[13]
- 大学では、岡部と The elements の渡辺とともにバンドをやっていた。バンド加入について岡部に打診したのも、渡辺の助言によるものだという。
- 大学時代、ロキシー・ミュージック などをよく聴いていた時期があり、「ブライアン・フェリーを意識して、白のドレスシャツに蝶タイにベスト着用で、髪型まで真似してステージに立っていた」。[14]
- 年を重ねた後年には「人前に立つのが苦手なヴォーカリスト」。[15]
- ジョン・レノンの系統の声に憧れがある。[16]
- メンバーの宮と岡部に影響されて、1990年代からアイリッシュ・トラッドを聴くようになった。[17]
- 13歳から24歳くらいまで毎月、雑誌「明星」を購入して付録の歌本に載っている歌詞を隅々までチェックする自称「歌詞オタク」であった。日本の二大作詞家として、阿久悠と松本隆を挙げている。[18]
- 影響を受けた作家として、サリンジャー、スティーヴン・ミルハウザー、詩人としてのリチャード・ブローティガンを挙げている。
- 1993年4月から、FM京都 α-station のパーソナリティーとして(バンドとして)3時間の番組をやっていた。
- 年少時代を大阪府高石市、香川県高松市で過ごす。
- 幼少の頃から「図鑑マニア」である。
(以上出典表示のないものは公式サイト[19]に基づく)
出演番組
脚注
外部リンク