石垣市八重山郡
八重山列島(やえやまれっとう、八重山語: ヤイマ、与那国語: ダーマ、沖縄語: エーマ)または八重山諸島(やえやましょとう)は、南西諸島西部の島嶼群で、宮古列島とともに先島諸島の一部を成す。
中心となる石垣島をはじめ、竹富島、小浜島、黒島、新城島(上地島、下地島)、西表島、由布島、鳩間島、有人島では日本最南端の波照間島などの石西礁湖周辺の島々と、これらから西に離れた日本最西端の与那国島の合計12の有人島[1]、及び、多くの無人島からなる島嶼群である。面積では沖縄県全体の約4分の1に相当し、県内では沖縄本島に次いで西表島が2番目、石垣島は3番目の大きさである[7]。主島の石垣島から沖縄本島までの距離は約411キロメートル[1]、台湾までの距離は約277キロメートル[8]。
行政区分では、沖縄県石垣市、八重山郡竹富町及び与那国町の1市2町からなり、有人島では、石垣島が石垣市、与那国島が与那国町にそれぞれ属し、他の10島はすべて竹富町に属する[1]。豊かな自然に恵まれ国指定の天然記念物が多数ある一方、1771年の八重山地震に伴う明和大津波や風土病のマラリア(1962年に撲滅)で多くの人命が失われるなど、過酷な歴史がある[7]。
「八重山」の名称の由来には諸説がある。1719年に琉球を訪れた中国人・徐葆光の著書『中山伝言録』には、「八重山、一名北木山、土名彜師加紀、又名爺馬」との記載がある。このうち、「彜師加紀」は「いしかき」、「爺馬」は「やま」と読むとされる。この記載では現在の八重山列島と石垣島とが区別されておらず、「八重山」が石垣島のことを指しているとも解される。「八重山」は「爺馬」と同じく「やま」への当て字であると考えられている。後の文献では離島も含めなぜ「八重山」と表記されるかは諸説あり、未だに決め手がない[7]。
「八重山」は、八重山方言では「ヤイマ」(国際音声記号で[jaima])、沖縄方言では「エーマ」([eːma])、与那国島では「ダーマ」([daːma])と発音される。
面積が100平方キロメートル以上の島は西表島(289.61平方キロメートル[2])と石垣島(222.25平方キロメートル[2])の2島である。いずれも古見岳や於茂登岳など、標高500メートル程度に達する山塊を含む高島で、河川も比較的よく発達している。それ以外の島は隆起珊瑚礁の低島で、標高も100メートルに達しない。
低地の隆起珊瑚礁には、熱帯要素の強い植物群落が成立する。内湾や河口域にはマングローブ林が発達するが、その種数は日本の他地域より多く、たとえばマヤプシキは日本ではこの地域でしか見られないし、より熱帯域では普通種であるニッパヤシやゴバンノアシもわずかに観察される。より内陸の低地でもウラジロアカメガシワやオオイワガネなど、いずれも熱帯域に広く分布するもので、日本ではこの地域でしか見られないものである。
石垣島、西表島には標高500メートル程度の山塊があり、水条件もよいため、その多くは照葉樹林に覆われていた。ただし、特に石垣島では開発のためにその面積を大きく減じている。このような森林はオキナワウラジロガシなどを主体としたもので、ヒカゲヘゴなどの木生シダを多く含んでいる。また着生植物にとみ、リュウキュウセッコクやリュウキュウトリノスシダ(英語版)の大株にアマモシシラン (Vittaria zosterifolia) がさらに着生して樹状に大きな塊を作り、またツルアダンが多数這い上る姿は、日本の他地域では見られない特徴となっている。
この地域はカンムリワシ、サキシマハブ、イシガキケブトハナカミキリなど、固有種が多く、その多くは石垣島、西表島に分布する。イリオモテヤマネコのように西表島にのみ分布するものもあるが、多くは両島に分布するものである。
15世紀末、八重山諸島ではオヤケアカハチと琉球王府に従属的な長田大主が覇を競ったが、1500年、オヤケアカハチが琉球王国への朝貢を断ったために尚真王に討伐され(オヤケアカハチの乱)、八重山諸島は琉球王国の支配下に入った。1524年、竹富島出身で琉球王府に仕えた西塘が竹富大首里大屋子の頭職に任じられ、竹富島に蔵元を開いて八重山を統治した[11]。
1628年には宮良・大浜・石垣の3つの間切が設けられて頭職が置かれ、1632年には王府から在番が派遣されるようになった。1641年には大和在番が置かれ、薩摩藩の役人が駐在した[12][13]が、7年後の1648年に廃止された[14]。1637年には人頭税が導入され、1903年に廃止されるまで課された。
明治時代に入ると、1908年に島嶼町村制が施行されて間切が廃止され、八重山諸島全域をひとつの自治体として八重山村が置かれた。しかし、範囲が広大で交通が困難であったため、1914年に石垣村・大浜村(ともに現在の石垣市)・竹富村(現在の竹富町)・与那国村(現在の与那国町)に分村した。
1940年7月7日、台風が接近して八重山諸島全体で家屋705戸が倒壊する被害[15]。
太平洋戦争中、連合軍が八重山諸島に上陸することはなかった。しかし、空襲や艦砲射撃での死者は判明しているだけで178人おり、当時の人口3万1681人のうち、マラリア罹患者が1万6884人で罹患率は53.29%、戦争マラリアでの死者は3,647人にのぼる[16]。
2008年の有村産業によるフェリー航路の運航休止(事実上の廃止)以降、八重山列島内と域外の間の公共交通機関による移動は航空路線のみに限られている[注 3]。
以下の3つの空港がある。
八重山列島内では新石垣空港 - 与那国空港間に定期路線がある。波照間空港には2008年以降定期便が就航していない。
以下の定期航路がある。石垣港を中心とした路線網が構成されている。
八重山諸島の各島間に架橋は存在しておらず、島を跨ぐ移動はもっぱら航路または航空路線に頼っている。
テレビ・ラジオとも、石垣島の石垣中継局は石垣島、西表島東部、そして両島間にある周辺の島々(竹富島・小浜島・黒島ほか)、さらに石垣島から約60キロメートル離れた波照間島をカバーしている(石垣島のテレビの場合、南部は石垣中継局、北部は川平テレビ中継局がカバーしている)。また祖納テレビ中継局は西表島西部と鳩間島、与那国中継局は与那国島をそれぞれカバーしている。
沖縄県に属する諸島
Lokasi Pengunjung: 3.145.152.16