佐藤 正(さとう ただし、嘉永2年6月1日(1849年7月20日) - 大正9年(1920年)4月27日)は、明治時代の陸軍軍人。階級は陸軍少将、位階は従二位功四級。広島藩出身。広島県平民[1]。歩兵第18連隊長、第3代広島市長、宮中顧問官等を歴任する。
経歴
広島藩士、勘定奉行の佐藤真五郎の四男として現在の広島市白島に生まれる。8歳で広島藩学問所(現:修道中学校・高等学校)に入り、山田十竹、木原桑宅、梅園介庵らに学び、慶応2年(1866年)18歳で学問所句読師となる。[2][3]。
明治5年(1872年)2月、陸軍少尉に任官し東京鎮台第9番大隊小隊長に就任。明治7年(1874年)1月、大阪鎮台に配属され、明治8年(1875年)8月、歩兵第8連隊付となる。明治9年(1876年)4月、歩兵第12連隊中隊長に転じ西南戦争に出征。従軍の後歩兵将校として累進。
明治11年(1878年)1月、陸軍戸山学校に配属され、参謀本部管西局員を経て、明治14年(1881年)3月、陸軍少佐に昇進し近衛歩兵第1連隊大隊長に就任。明治15年(1882年)3月、大阪鎮台参謀となり、明治17年(1884年)12月、仙台鎮台参謀に就任。明治19年(1886年)5月、陸軍中佐に進級。明治21年(1888年)5月22日から休職し、同年9月13日、歩兵第24連隊長として復職。明治24年(1891年)11月24日、歩兵第18連隊長に就任。明治25年(1892年)11月1日、陸軍大佐に進級し日清戦争に従軍する。明治28年(1895年)3月4日、平壌攻略戦の最中、銃弾を受け重傷を負う。この怪我が元で左足切断となり、同年3月7日に休職し、同年10月20日、退役と同時に陸軍少将に進級する。
軍を退いた佐藤は明治29年(1896年)1月から同年4月まで広島市長に就任。明治31年(1898年)11月29日、宮中顧問官に就任する。その後東亜同文会幹事長・愛国婦人会事務総長を歴任し、大正4年(1915年)には修道中学校総理に就任する。陸軍時代の上官であり親交の深かった乃木希典から佐藤に宛てられた手紙が、修道中学校・修道高等学校に保存されている。[4]
栄典
- 位階
- 勲章等
家族・親族
佐藤家
- (広島県、東京本郷区向ヶ岡弥生町[1])
脚注
- ^ a b c d e f g h i j 『人事興信録 5版』(大正7年)さ九
- ^ 『修道学園史』(昭和32年)152頁
- ^ 『修道学園通信vol.110』(2022年SPRING号)10-11頁
- ^ http://www.shudo-h.ed.jp/info/pdf/92_2.pdf
- ^ 『官報』第2719号「叙任及辞令」1892年7月21日。
- ^ 『官報』第5038号「叙任及辞令」1900年4月21日。
- ^ 『官報』第6548号「叙任及辞令」1905年5月2日。
- ^ 『官報』第478号「賞勲叙任」1885年2月6日。
- ^ 『官報』第3131号「叙任及辞令」1893年12月5日。
- ^ 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。
- ^ 『官報』第7639号・付録「叙任及辞令」1908年12月11日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
参考文献
- 佐藤清勝『佐藤正伝』1936年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
関連項目
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- 初代 林毅陸 1946-1950
- 第2代 本間喜一 1950-1955
- 第3代 小岩井浄 1955-1959
- 第4代 本間喜一 1959-1963
- 第5代 脇坂雄治 1963-1967
- 第6代 玉城肇 1967-1969
- 第7代 山田文雄 1969-1970
- 第8代 細迫朝夫 1970-1972
- 第9代 久曾神昇 1972-1984
- 第10代 浜田稔 1984-1987
- 第11代 石井吉也 1987-1988
- 第12代 牧野由朗 1988-1992
- 第13代 石井吉也 1992-1999
- 第14代 武田信照 1999-2007
- 第15代 堀彰三 2007-2008
- 第16代 佐藤元彦 2008-2015
- 第17代 川井伸一 2015-2023
- 第18代 広瀬裕樹 2023-
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- 中尾正名1878.11.1-1884.5
- 栗原幹1884.5.28-1889.4.1
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