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「ユダヤ紀元」とも呼ばれる「創世紀元」とは異なります。 |
世界創造紀元(せかいそうぞうきげん)は、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)で公式に使用された紀年法。世界暦とも訳される[1]。ビザンティン暦(英語:Byzantine calendar)とも呼ばれる。988年に皇帝バシレイオス2世により導入され、1453年の帝国滅亡まで使用された(それ以前のレオーン6世の時代から一部では使用されていた)。
東ローマではいわゆる「西暦」は使用されておらず、当初は古代ローマ時代からの伝統を受け継いで、その年の執政官の名で年を呼んでいた。しかし、541年に官職としての執政官が廃止され名誉称号になってしまうと、15年周期の会計年度であるインディクティオを使用するようになった。ただし、インディクティオは15年周期であるために単に「第3インディクティオ」などとすると、どの年のことなのか分からなくなってしまう可能性があった。そこでこの世界創造紀元が導入されたのである。
実質的にはユリウス暦であるが、月名がラテン語からギリシア語に翻訳されており、また1年の開始が9月1日に置かれていた(ちなみに、インディクティオは9月始まりであった)。世界創造紀元元年は西暦に直すと紀元前5509年~5508年にあたり、旧約聖書の『創世記』にある天地創造についての年を逆算して設定された[注釈 1]。
東ローマ帝国における1年の開始は462年頃に9月1日に変更され、537年には公式に9月1日が新年の始まりと制定された。しかし10世紀に至るまで、東ローマ帝国の歴史家たち、たとえば告白者マクシモス、告白者フェオファネス、ゲオルギオス・シュンケロスらは、3月25日を新年の始まりとして使い続け、紀元前5508年を元年として年を数えていた。またローマ帝国が東地中海世界を支配して以来、ラテン語の月名はギリシア語に直して用いられていた。
閏は元来のユリウス暦と同様閏年に、3月1日の6日前を二回にすることで設けられた。すなわち2月24日が二回設けられる。
重要な年
東ローマ人の世界観によれば、ローマはその建国から東ローマ帝国の滅亡まで約2000年続いたことになる。
東ローマ帝国の国教であった正教会では、この紀年法が帝国の滅亡後も長く使用された。ロシアでは西暦1700年まで世界創造紀元を使用していた。正教会の幾つかの少数の教会では、現在も使用されている(日本ハリストス正教会は基本的に西暦を用いている)。2024年は世界創造紀元の7532年から7533年に相当する。
脚注
注釈
- ^ この算定に使用されたのは、ヘブライ語聖書ではなく、ギリシア語七十人訳聖書である。ヘブライ語本文に基づく算定と七十人訳に基づく算定では1000年以上の開きが生じる。
出典
- ^ 大槻康弘「二 コンスタンティノープル陥落」「第4章 近代的思考の誕生」『ヨーロッパ史 拡大と統合の力学』岩波新書、2003年
関連項目