1209年、前記のハインリヒ2世(Heinrich II. der Reiche)の3人の息子たちが、家領をヴァイダ(長兄)、ゲーラ(次兄)、グライツ(弟)にそれぞれ分割した。3人の息子たちはそれぞれの本拠に居所を置いたが、3人とも引き続いてヴァイダ城代(Vögte von Weida)の称号を用いた。1237年までに、3兄弟による家領の分割は公に認められた。
ヴァイダ城代系統は1531年に断絶し、その領土はザクセン選帝侯領(エルネスティン家領)に吸収された。またゲーラ城代系統も1550年に断絶し、その遺領はプラウエン城代系統のマイセン城伯ハインリヒ4世(Heinrich IV. von Plauen (Burggraf von Meißen))が相続した。ロイス家はグライツと現在のザクセン地方に属する城代領の一部を所有していた。ロイス家は1560年9月28日、皇帝の裁可により、シュマルカルデン戦争中に失われたグライツの領地を取り戻した。また、ロイス家はゲーラ、シュライツ、ローベンシュタインをも獲得した。1572年に本家筋のマイセン城伯の系統が絶えると、ロイス家がそのマイセン城伯家の遺領を受け継いだが、1590年まではマイセン城伯家に資金を貸し付けていた抵当権者たちと所有権をめぐって争わねばならなかった。
「ロイス」の家名
ロイス(Reuß)の家名はルテヌス(Ruthenus)、 ルスツェ(Rusze)とも表記されるが、これはプラウエン城代ハインリヒ1世(Heinrich I. (Plauen))の次男ハインリヒのあだ名「ルテヌス」(Heinrich Ruthenus。ラテン語では「Henrico de Plawe dicto Ruze」と表記される。史料で生存が確認できるのは1292年まで)に由来する。
「ルテヌス」というあだ名は、彼がロイス家領の東のルーシ、より厳密にはルテニア(Ruthenia)地方に長く滞在し、さらにはルテニアの支配者で「ルーシの王」を名乗るハールィチ=ヴォルィーニ王国の王族の娘マリヤ(Maria Swihowska)を妻に迎えたために付けられた。ハインリヒ・ルテヌスとマリヤの息子のハインリヒ2世(Heinrich II. (Reuß-Greiz))は、ルーシの王家の女系子孫であることを示すために、1307年より公式の家名としてロイスを名乗った。
ロイス家の全ての男子は、洗礼名としてハインリヒ(Heinrich)を名乗る決まりである。個々の男子を区別するため、必ず名前に序数が付けられる。Heinrich I. や Heinrich II. といったようにである。日本語のテキストでは、序数が代数を意味する場合と同様に、一般に「ハインリヒ〇世」と訳される。
この異常とも言える一族の掟は、1668年にはロイス家の家内法に明記された。この伝統はおそらく1200年頃、遠祖のハインリヒ2世(Heinrich II. der Reiche、1209年以前に没)が、ホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世によりクヴェトリンブルク帝国女子修道院(Stift Quedlinburg)の城代に任命された際に、多大な恩義を受けたことを忘れないため、全ての子孫にハインリヒ皇帝の名前を付けるように決めたものと考えられている。独立諸侯であった兄系と弟系のロイス侯家が断絶した後も、一族の末裔たちによって堅固に守られ続けている。
弟系ロイス家では、始祖であるハインリヒ2世ポストゥムス(Heinrich II. Posthumus (Reuß-Gera))の10人の息子たちが1世から10世までを名乗り、その10人兄弟の息子たちの世代も、最後に生まれたハインリヒ29世(1699年生)に至るまで弟系ロイス家全体でのナンバリングを続けた。その次の世代(始祖ハインリヒ・ポストゥムスの曾孫の世代)で最初に生まれたシュライツ家のハインリヒ1世(1695年生)から序数を1に戻し、世代に関係なくケストリッツ家のハインリヒ75世(1800年生)まで続けた。弟系のロイス=ローベンシュタイン=エーベルスドルフ侯ハインリヒ72世(1797年生)は、最も大きな序数のついた君主として、ギネス・ワールド・レコーズに登録されている。
^ドイツではプライバシー保護法において、容疑者段階では個人名(日本で言う「下の名前」)が公開される一方で、姓はイニシャルのみの公表となるが、ハインリヒ13世の場合は「Heinrich XIII P. R.」として(「Heinrich XIII」という名を持つ、「Prinz Reuss」という姓の人物として)公表された[9]。
Berthold Schmidt: Die Reußen, Genealogie des Gesamthauses Reuß älterer und jüngerer Linie, sowie der ausgestorbenen Vogtslinien zu Weida, Gera und Plauen und der Burggrafen zu Meißen aus dem Hause Plauen, Schleiz 1903
Berthold Schmidt: Burggraf Heinrich IV. zu Meißen, Oberstkanzler der Krone Böhmens und seine Regierung im Vogtland, Gera 1888
Berthold Schmidt: Geschichte des Reußenlandes, 1. und 2. Halbband, Gera 1923 und 1927
Johannes Richter: Zur Genealogie und Geschichte der Burggrafen zu Meißen und Grafen zum Hartenstein aus dem älteren Hause Plauen, in Sächsische Heimatblätter 5/1992
Dr. Werner Querfeld: Greiz Geschichte einer Stadt, Greiz 1995,
Sigismund Stucke: Die Reußen und ihr Land - die Geschichte einer süddeutschen Dynastie. A -St. Michael 1984, ISBN 3-7053-1954-X