オテル・ド・サンス
オテル・ド・ゲネゴー
オテル・ダルブレの玄関
ヴォージュ広場に近いシュリー館の庭園
カルナヴァレ博物館 の中庭
オテル・ド・スービーズの屋敷
フラン・ブルジョワ通りから東側、ヴォージュ広場方向を見た景色
ストリート・アーティストがフェルメール の「真珠の耳飾りの少女 」を歩道に描いているところ(2005).
ル・マレ (Le Marais)は、フランス 、パリ の歴史的地域である。長く貴族 が居住した地域であり、歴史・建築的重要性の高い多くの優れた建造物がある。パリの3区 から4区 にかけて広がっている地域であり[ 1] 、日本ではマレ地区の名で知られる。リーヴ・ドロワト(Rive Droite)と呼ばれるセーヌ川 右岸の地域にある。
歴史
パリの貴族街
1240年 にテンプル騎士団 は要塞化工事を施した教会をマレ地区の北側、パリの城壁の外側ほど近くに建設した。タンプル塔 によってこの地区は魅力を増し、タンプル地区 (Quartier du Temple )として知られるようになった。また、サント=カトリーヌ=デュ=ヴァル=デゼコリエ教会 (Sainte-Catherine-du-Val-des-Écoliers) と並び、ブラン・マントー (Blancs Manteaux) やサン=クロワ・ド・ラ・ブルトヌリ、カルム=ビエット (Carmes-Billettes) 女子修道院 などの数多くの宗教施設が近隣に建設された。
13世紀 、ルイ9世 の弟シチリア 王であるシャルル・ダンジュー は、自身の邸宅を現在のセヴィニエ通り7番近くに建てた[ 2] 。14世紀に入った1361年、シャルル5世 はオテル・サン=ポール (サン=ポール館、Hôtel Saint-Pol ) として知られる邸宅を建て、シャルル5世及びその子シャルル6世 の治世において宮廷 ないし王宮 が置かれた。
その頃の百年戦争 の時代を挟んだ16世紀にかけて、サン=ポール館の他、トゥルネル館 (Hôtel des Tournelles ) が建てられ、イングランド王フランス摂政ベッドフォード公爵 ジョン・オブ・ランカスター 、ルイ11世 、フランソワ1世 、アンリ2世 らが居住ないし滞在した。
17世紀に入り1605年、「王の広場」(現在のヴォージュ広場 )がブルボン朝 創始者アンリ4世 のもとで設計されて以降、マレ地区はフランス貴族 に居住地として人気があった。フランスの貴族は自分たちの本邸をマレ地区に建てた。オテル・ド・サンス (Hôtel de Sens)、オテル・ド・シュリー (Hôtel de Sully)、オテル・ド・ボーヴェ (Hôtel de Beauvais)、オテル・カルナヴァレ (Hôtel Carnavalet, 現在のカルナヴァレ博物館 )、 オテル・ド・ゲネゴー (Hôtel de Guénégaud)、オテル・ド・スービーズ (Hôtel de Soubise) ・・などがその例である。
ユダヤ人社会
貴族がフォブール・サンジェルマン へ移動し始めた後に、マレ地区はパリの主要なユダヤ人 社会を抱える、活発で人気のある商業地域となった。19世紀 から20世紀 前半の間、プレッツルと呼ばれたロジエ通り (Rue des Rosiers ) 付近の地区は多くの東欧系ユダヤ人(アシュケナジム )を迎え入れ、彼らによってマレ地区の服飾業への特化が加速した。しかし、第二次世界大戦 の間、ユダヤ人社会はフランスを占領していたナチス・ドイツ によって攻撃の対象とされた。
ロジエ通りは現在も、1990年代以降活気を取り戻したパリのユダヤ人社会の中心である。ユダヤ人によるイベントが告示され、書店はユダヤ人による書物に特化し、多くのレストランやその他の(安売りの)小売店などがカーシェールの食べ物 を販売している。
マレ地区にはユダヤ芸術歴史博物館があり、芸術的・文化的遺産を通してユダヤ世界の歴史を追っている[ 3] 。
パヴェ通り10番にあるシナゴーグ (Agoudas Hakehilos Synagogue)は、ロジエ通りからそれほど離れていない。このシナゴーグはいくつかのメトロ の駅も設計したアール・ヌーヴォー の建築家エクトール・ギマール によって1913年に設計された。
1982年、マレ地区のユダヤ人料理店で、複数人のテロリストが6人を殺害し22人を負傷させるゴールデンバーグレストラン事件が発生した。この事件は一般的には、20カ国でテロ事件を起こし900人以上を殺害または負傷させた、イスラーム 系のアブ・ニダル 組織の犯行とされる[ 4] [ 5] 。
戦後の復興
1950年代までにこの地区は労働者階級 の地区となり、地区内の優れた建築の多くが劣悪な補修状況に置かれていた。1964年、シャルル・ド・ゴール 政権の文化大臣アンドレ・マルロー は、マレ地区を最初の保存地区(secteur sauvegardé)とした。これらの保存地区は文化的に特に重要な地域や建築物を保護し、保存するために設けられた。その後の数十年で政府およびパリ市当局は、強力な復元活動および復興計画を実行した。
主要な、フランス式の大規模なタウンハウス (Hôtels particuliers)は修復が行われて美術館となった。オテル・サレ(Hôtel Salé)にはピカソ美術館 があり、オテル・カルナヴァレ (Hôtel Carnavalet)にはカルナヴァレ博物館(パリ歴史博物館)が、オテル・ドノン(Hôtel Donon)にはコニャック=ジェイ美術館 があるといった具合である。マレ地区の西側にあるボーブール地区には欧州最大のコレクションを有する国立近代美術館 が入った総合文化施設ポンピドゥー・センター がある。建設はレンゾ・ピアノ とリチャード・ロジャース により、1977年に革命的な建築として完成した。
今日のマレ地区
マレ地区は現在では、パリでも有数のアートギャラリー が集まる地域である。その復興に続いて、ソーホー 等と比肩されるようにマレ地区は流行 の発信地となった。多くの流行のレストランや高級ファッションメーカー、先端をいくギャラリーがある。
また、地区内にある中国人コミュニティ(中華街 )も有名である。中国人コミュニティは第一次世界大戦 中に現れ始めた。その時期、フランスは戦場にいる兵士たちの代わりの労働力を必要としており、中国は戦争に参加させないことを条件に数千人の市民を送ることを決めた。1918年の終戦後、彼らの一部はパリに残ることを決め、特に現在のメール通りの周辺に住んだ。今日、その多くは宝石店や皮革関連製品産業の中で働いている。マレ地区の中国人コミュニティは地区の北部、特にレピュブリック広場の周囲に定着した。レピュブリック広場に接したタンプル通りにパリの中国人教会がある。
LGBTカルチャー
マレ地区は1980年代に始まったLGBT カルチャーの中心となった。多くのゲイ カフェ、ナイトクラブ、キャバレー、ショップの存在が示すようにゲイの影響力が増している。 これらの施設は主にマレ地区の南西の部分に集まっており、多くがサン=クロワ・ド・ラ・ブルトヌリ通りおよびアルシーヴ通りに面するかその近くにある。
パリにおけるLGBT関係の取引の40%がマレ地区におけるものである。Paris: 'Resting on its Laurels'? の著者のフローレンス・タマーニュは、著書の中でマレ地区は「人が生き、暮らす『村』というよりは歓楽街への玄関口である」と言い、またそのことこそがマレ地区をアングロアメリカのゲイ・タウン と異なるものにしているとも言っている[ 6] 。アメリカのゲイ・タウンと同じように、マレ地区は「商業主義、ゲイ・プライド 、カミングアウト を重要視する」ともタマーニュは言っている[ 6] 。
ヨーロッパでも屈指の規模であるクルージングバー、ル・デポはマレ地区にある.[ 6]
著名な居住者・出身者等
貴族
政治
文化
観光名所
フランス国立中央文書館 (Hôtel de SoubiseとHôtel de Rohanを含む)
カルナヴァレ博物館
ノートルダム=デ=ブラン=マントー教会 (Notre-Dame-des-Blancs-Manteaux)
サン=ジェルヴェ=サン=プロテ教会 (Saint-Gervais-Saint-Protais)
サン=メリ教会 (Saint-Merri)
サン=ニコラ=デ=シャン教会 (Saint-Nicolas-des-Champs)
サン=ポール=サン=ルイ教会 (Saint-Paul-Saint-Louis)
パリ市立史料館 (フランス語版 ) (パリ歴史図書館、アングレーム・ラモワニョン館 (フランス語版 ) ) - カルナヴァレ博物館の向かいにある。
オテル・ドーモン (Hôtel d'Aumont)
オテル・ド・ボーヴェ (Hôtel de Beauvais)
オテル・ド・サンス (Hôtel de Sens)
オテル・ド・シュリー (Hôtel de Sully)
ヴォージュ広場(ヴィクトル・ユーゴー の家とカフェのマ・ブルゴーニュ (Ma Bourgogne) を含む)
コニャック=ジェイ美術館
ユダヤ芸術歴史博物館(サンタニャン (Saint-Aignan) 館内)
パリ工芸博物館
ピカソ美術館
プレッツル (Pretzl) のユダヤ地区
マレ寺院 (Temple du Marais)
ギャラリー
ロジエ通りにある
ユダヤ ・デリカテッセン Jo Goldenberg's Jewish delicatessen (現在店舗はなくなっている)。ゴールデンバーグレストラン事件 (
Goldenberg restaurant attack ) の発生場所になる。
マレ地区の
ユダヤ料理 レストラン Chez Marianne
ユダヤ人 が特に多いプレッツル地区(
fr , サン=ポール広場周辺界隈の通称)にあるレストラン Pitchi Poï
ロジエ通りにあるムルシアーノユダヤベーカリー
Hôtel de Sens
Hôtel Soubise
Maison de Jean Herouet
l'Hôtel d'Almerasの玄関
サン=ジェルヴェ・サン=プロテ教会の内部
サン=ポール・サン=ルイ教会
サレ館(Hôtel Salé) (ピカソ美術館)
ヴォージュ広場
Hôtel de Beauvaisの中世の地下室
ミロン通りの中世の住宅
パリ市歴史図書館の閲覧室
オーブリオ通りの眺め
プロテスタント教会であるマレ寺院
脚注
^ およそ、東はボーマルシェ大通り (Boulevard Beaumarchais )、西はボーブール通り (Rue Beaubourg )、南はセーヌ川 、北はブルターニュ通り (Rue de Bretagne ) に区切られた地域を指す。
^ この邸宅は1868年まで残り、ロワ・ド・シシル通りはこれにちなんで名付けられた
^ http://www.timeout.com/paris/en/museums/musee-dart-et-dhistoire-du-judaisme
^ Massoulié, François (2003). Middle East conflicts . Interlink Books. p. 98. ISBN 1566562376
^ Charters, David (1994). The deadly sin of terrorism: its effect on democracy and civil liberty in six countries . Greenwood Publishing Group. p. 108. ISBN 0313289646
^ a b c Tamagne, Florence. "Paris: 'Resting on its Laurels'?" (Chapter 12). In: Evans, Jennifer V. and Matt Cook. Queer Cities, Queer Cultures: Europe since 1945 . Bloomsbury Publishing, August 28, 2014. ISBN 144114840X , 9781441148407. Start p. 240 . CITED: p. 250 .
^ Elizabeth Gouslan (28/8/2011). “Emma Watson l'ensorceleuse ”. Madame Figaro . 22/3/2023閲覧。
参考文献
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
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座標 : 北緯48度51分27.36秒 東経2度21分41.23秒 / 北緯48.8576000度 東経2.3614528度 / 48.8576000; 2.3614528