1822年から1839年の間に作られた、リチャード・テンプル=グレンヴィルの紋章。ストー・ハウス (英語版 ) のゴシック図書館(Gothic Library )で展示され、家系のクォーターリング (英語版 ) が719も含まれている。
リチャード・ジェームズ・レーン (英語版 ) による肖像画、1825年から1850年の間の作品。
リチャード・プランタジネット・テンプル=ニュージェント=ブリッジス=シャンドス=グレンヴィル (英語 : Richard Plantagenet Temple-Nugent-Brydges-Chandos-Grenville, 2nd Duke of Buckingham and Chandos , KG GCH PC FSA 、1797年 2月11日 - 1861年 7月29日 )は、イギリス の貴族、政治家。トーリー党 に所属して、1841年から1842年まで王璽尚書 を務めた。生誕から1813年までコバム子爵 を、1813年から1822年までテンプル伯爵 を、1822年から1839年までシャンドス侯爵 を儀礼称号 として使用した。
公爵として高い社会地位を有したが、離婚に議会立法を必要とする時代にそれを果たしたことと、生誕時点でかなり裕福だったにもかかわらず1847年に100万ポンド以上の債務を抱えて破産を宣言したことで知られた。
初期の経歴
テンプル伯爵リチャード・ニュージェント=テンプル=グレンヴィル (後にバッキンガム=シャンドス公爵 に叙された)とアン・ブリッジス (英語版 ) (第3代シャンドス公爵 の一人娘)の息子として、バッキンガムシャー のストー (英語版 ) で生まれた。アンはバッキンガム=シャンドス公爵夫人のほか、法令上 はキンロス女卿 でもあった。1799年、リチャード・ニュージェント=テンプル=グレンヴィルはすでに三重姓にもかかわらず、国王の許可を受けて妻の家系を姓に追加して、「テンプル=ニュージェント=ブリッジス=シャンドス=グレンヴィル」とした[ 1] 。
父方の祖父は初代バッキンガム侯爵 で曽祖父はイギリス首相ジョージ・グレンヴィル だった。1808年にイートン・カレッジ に入学、1815年にはオックスフォード大学 オリオル・カレッジ に入学した[ 2] 。
政歴
1818年から1839年までバッキンガムシャー選挙区 (英語版 ) 選出の庶民院 議員を務めた後、父から公爵位を継承して貴族院 に移籍した[ 2] 。1841年9月、サー・ロバート・ピール によって枢密顧問官 [ 3] と王璽尚書 に任命されたが[ 3] 、1842年2月に辞任した。1835年にロイヤル・ゲルフ勲章 (英語版 ) グランド・クロスを授与され、1840年にロンドン考古協会 フェローに選出され[ 2] 、1842年にガーター勲章 を授与された[ 4] 。
私生活
1819年、第4代ブレッダルベイン伯爵ジョン・キャンベル (英語版 ) 中将 (後の初代ブレッダルベイン侯爵)の娘メアリーと結婚した。2人は息子リチャード と娘アンナ (英語版 ) をもうけたが、バッキンガム=シャンドス公爵が財産を使い果たしたため2人は1850年に離婚した。娘アンナは後に女性の権利 運動に加わった[ 5] 。当時のイギリスでは離婚に議会立法を必要とした。
1847年、バッキンガム=シャンドス公爵は100万ポンド以上の債務(2018年時点の8976万ポンド)を抱えて破産を宣言した。彼は資金を調達するために1841年にサマセットのキーンシャム(Keynsham )の領地を、1847年にアヴィントン・パーク (英語版 ) を売却した後、1848年8月から9月にかけてついに本領であるストー・ハウス (英語版 ) を競売にかけ、19世紀におけるイギリスのカントリー・ハウス競売 (英語版 ) では最大規模のものとなった[ 6] 。
1861年7月、パディントン のグレート・ウェスタン・ホテル (英語版 ) にて死去、息子リチャードが公爵位を継承した。元妻メアリーはその1年後にあたる1862年6月に死去した[ 2] 。
脚注
^ Mosley, Charles, ed (2003). Burke's Peerage, Baronetage & Knighthood (英語版 ) (107 ed.). Burke's Peerage & Gentry. pp. 2186. ISBN 0-9711966-2-1
^ a b c d Boase, George Clement (1890). "Grenville, Richard Temple Plantagenet Nugent Brydges Chandos" . In Stephen, Leslie ; Lee, Sidney (eds.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 23. London: Smith, Elder & Co . pp. 130–131.
^ a b "No. 20014" . The London Gazette (英語). 3 September 1841. p. 2221.
^ "No. 20090" . The London Gazette (英語). 12 April 1842. p. 1017.
^ Elizabeth Crawford, ‘Langton, Lady Anna Eliza Mary Gore- (1820–1879)’, Oxford Dictionary of National Biography , Oxford University Press, 2004 accessed 7 Nov 2017
^ Beckett, J. V. (1994). The Rise and Fall of the Grenvilles: Dukes of Buckingham and Chandos, 1710 to 1921 (英語). Manchester University Press. pp. 228–230. ISBN 9780719037573 . 2018年10月10日閲覧 。
関連図書
Spring, David; Spring, Eileen (1956). "The Fall of the Grenvilles, 1844-1848". Huntington Library Quarterly (英語). 19 (2): 165–190. doi :10.2307/3816224 . JSTOR 3816224 。
Fisher, David R. (1986). "TEMPLE NUGENT BRYDGES CHANDOS GRENVILLE, Richard Plantagenet, Earl Temple (1797-1861)" . In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年7月10日閲覧 。
Fisher, David R. (2009). "TEMPLE NUGENT BRYDGES CHANDOS GRENVILLE, Richard Plantagenet, Earl Temple (1797-1861)" . In Fisher, David (ed.). The House of Commons 1820-1832 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年7月10日閲覧 。
外部リンク