ロバート・ネスタ・マーリー(英語: Robert Nesta MarleyOM、1945年2月6日 - 1981年5月11日)は、ジャマイカのシンガーソングライター、ミュージシャン。レゲエの先駆者の一人であり、スカの時代から活躍しロックステディ、レゲエの時代まで音楽界を駆け抜けた。また洗練された歌声と宗教的・社会的な歌詞、曲で知られた。マーリーは60年代から80年代初頭までレゲエ音楽とカウンターカルチャーの活躍により、ジャマイカ音楽の世界的な認知度を高めることに貢献した。マーリーはラスタファリの象徴、ジャマイカの文化とアイデンティティの世界的なシンボルともみなされた。マリファナ合法化支持者であり、汎アフリカ主義でもある。音楽ソフトの推定売上枚数は世界中で7,500万枚を超え、マーリーの音楽と思想は後進のミュージシャンなどに影響を与えた。
マーリーは1962年のはじめから再び店を訪ねてオーディションを受け、自身の作曲した「Judge Not」を披露。その後ビヴァリーズ・レコードから「Judge Not」「Do You Still Love Me?」「Terror」の3曲を発表、ボビー・マーテル(Bobby Martell)名義では「One Cup Of Coffee」の1曲を発表した。
1963年、セデラがセカンド・ストリートの家を離れアメリカへ行くと、マーリーはトレンチタウンで路上生活をするようになった。この時の体験が1974年発表のアルバム『Natty Dread』収録の名曲「No Woman No Cry』を生んだ。同年、マーリーはバニー・ウェイラー、ピーター・トッシュ[注 1]、ジュニア・ブレイスウェイト、ビバリー・ケルソ、チェリー・スミスらと共にザ・ティーンエイジャーズを結成。後に彼らは名前をザ・ウェイリング・ルードボーイズ、ザ・ウェイリング・ウェイラーズと変更していくが、スタジオ・ワンのレコードプロデューサーであるコクソン・ドッドと契約する頃、最終的にザ・ウェイラーズになった。
1969年、レスリー・コングの下で10曲レコーディング。これは翌年にアルバム『The Best of The Wailers』として発表される。「Stop That Train」「Soul Captives」「Cheer Up」などが収録されている。なお、メンバーは「そのアルバムタイトルは偽りだ」「もしリリースされるような事があれば、お前は死ぬ事になるだろう」などと言い、アルバムの発表に反対していた(実際には1970年に心臓発作で亡くなっている。)。同年春、家族と共にアメリカへ向かい秋まで再びデラウェア州で働く。この経験から「It's Alright」を作曲。1976年にはこの曲をアルバム用に作り直し「Night Shift」と改題している。
リー・ペリーとそのスタジオ・バンドのザ・アップセッターズに出会い、1969年の後半から1970年にかけて数々のセッションを行い、レコーディングした(「Duppy Conqueror」「Small Axe」「Corner Stone」「Soul Rebels」「Lively Up Yourself」「Kaya」「400Years」「Stand Alone」「Sun is Shining」など。)。やがてザ・アップセッターズのメンバー、ベースのアストン・バレット(ファミリーマン)とドラマーのカールトン・バレット(カーリー・バレット)はザ・ウェイラーズのメンバーに加わり、バンドのサウンドに大きな変化をもたらした。
1970年の7月頃、アップセッター・レコードからボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ名義でアルバム『Soul Rebels』を発表、デラウェア州で稼いだ僅かな資金をもとにキングストン市ホープロード56番地に自身のスタジオ、レーベルであるタフ・ゴングを設立。同年暮れにビヴァリーズ・レコードからアルバム『The Best of The Wailers』を発表する。
1971年春、ロンドンにてCBSで「Reggae On Broadway」などをレコーディング。夏にタフ・ゴング・レーベルから発表した「Trenchtown Rock」が大ヒットした。暮れにはジョニー・ナッシュのイギリスツアーに参加。CBSから「Reggae On Broadway」を発表、しかし不発に終わった。
1973年春、メジャーデビューアルバム『Catch a Fire』を発表(「Concrete Jungle」「Slave Driver」「Stir It Up」「Kinky Reggae」「No More Trouble」)。この頃、トロージャン・レーベルからアルバム『African Herbsman』が発表された。5月、イギリスのラジオ番組「トップ・ギア」にて演奏。6月には厳格なラスタであるバニーが適切な自然食を取ることが出来ないなどの理由から、ツアーへの不参加を表明した。7月、バニーの代わりにジョー・ヒッグスを加え初のアメリカツアーを行い、ニューヨークではブルース・スプリングスティーンの前座を務める。デビューアルバム発表から約半年後の10月19日、アルバム『Burnin'』を発表した。(「Get Up, Stand Up」「I Shot the Sheriff」「Burnin' And Lootin'」「Small Axe」「Rastaman Chant」など。)
1974年1月、新メンバーを迎えアルバム『Natty Dread』のレコーディングを開始する。5月、マーヴィン・ゲイのジャマイカ公演でオリジナルウェイラーズが復活、最後の演奏を行った。その直後タフ・ゴング・レーベルから発表した「Rebel Music (3 O'Clock Roadblock)」がヒット。7月、エリック・クラプトンが「アイ・ショット・ザ・シェリフ」をカバーし、全米ビルボードチャート1位を獲得する。10月25日、アルバム『Natty Dread』を発表した。(「Lively Up Yourself」「No Woman No Cry」「Them Belly Full (But We Hungry)」「Natty Dread」「Talkin' Blues」など。)
1976年4月30日、アルバム『Rastaman Vibration』を発表(「Positive Vibration」「Root, Rock, Reggae」「Crazy Baldhead」「Who The Cap Fit」「War」など)。政治闘争、軍拡競争を批判した「Rat Race」がジャマイカで大ヒットした。ヒットの背景には、マイケル・マンリー率いる人民国家党(PNP)とエドワード・シアガが率いるジャマイカ労働党 (JLP) の二大政党による対立の激化があった。
1976年12月3日、コンサートのリハーサル中に銃で武装した6人の男に襲撃を受け、マーリーも胸と腕を撃たれた。重傷の者もいたものの、幸い死者は出なかった。二日後、コンサートに出演。マーリーは約80,000人の聴衆に向かって「このコンサートを開く事を二か月半前に決めた時、政治なんてなかったんだ! 僕は人々の愛のためだけに演奏したかった」と言い、約90分の演奏をやりきった(「War/No More Trouble」「Get Up, Stand Up」「Smile Jamaica」「Keep on Moving」「So Jah Seh」など)。演奏の最後には、服をめくり胸と腕の傷を指さして観客に見せつけその場を去った。翌日早朝、マーリーはジャマイカを発ちバハマへ。後にコンサートに出演した理由を尋ねられたとき、「この世界を悪くさせようとしてる奴らは休みなんか取っちゃいない。それなのに僕が休むなんて事ができるかい?」と語った。
ロンドンで活動
1977年1月、マーリーは新ギタリストジュニア・マーヴィンを迎えロンドンでアルバム2枚分レコーディング。亡命生活を送っていたハイレ・セラシエの孫に家へ招かれ、皇帝の形見である指輪をもらい受けた。マーリーは、これを生涯外すことはなかった。モデルで1976年度ミス・ワールドのシンディ・ブレイクスピアと交際を開始。6月3日、アルバム『Exodus』を発表する(「Exodus」「Jamming」「Waiting in Vain」「Three Little Birds」「One Love/People Get Ready」など)。ブルース、ソウル、ブリティッシュ・ロックなどの要素を取り入れたマーリーのこのアルバムは、56週間連続してイギリスのチャートに留まった。
1978年3月23日、アルバム『Kaya』を発表。(「Easy Skanking」「Kaya」「Is This Love」「Satisfy My Soul」「Running Away」など。)
ワン・ラブ・ピース・コンサート
1978年、ジャマイカに帰国し4月22日にキングストンで「ワン・ラブ・ピース・コンサート」に出演する(「Lion of Judah」「Natural Mystic」「Trenchtown Rock」「Natty Dread」「Positive Vibration」「War」「Jamming」「One Love / People Get Ready」「Jah Live」)。
1978年6月15日、マーリーはアフリカ諸国の国連代表派遣団から第三世界平和勲章を授与される。7月21日、シンディがダミアン・マーリーを出産。11月10日、ライブアルバム『Babylon By Bus』を発表。12月、かねてからの念願であったラスタファリズムの聖地、エチオピアをはじめとするアフリカの国々を訪問した。マーリーも、このときの体験をもとにアルバム『Survival』を発表している。
1979年には4月から日本、オーストラリア、ニュージーランドで公演を行った。7月21日、ボストンで黒人解放運動を支援するアマンドラ慈善コンサートに出演、南アフリカのアパルトヘイトに対する強い反対の意を示した。この頃、シングル「Zimbabwe」が大ヒット。10月2日にはアルバム『Survival』を発表(「So Much Trouble In The World」「Zimbabwe」「Africa Unite」「Ride Natty Ride」「Wake Up And Live」など)、アフリカのミュージシャンが次々と「Zimbabwe」のカバー・ヴァージョンを発表する。11月13日、ガーナからアシャンティのオサヘネ(元は救世主の意)の称号を受けた。
1980年1月4日には西アフリカのガボンを訪問、滞在中に初となるアフリカでのコンサートを開催した。2月6日、自宅スタジオのあるホープロードの支援者やその子供たちを誕生パーティに招待する。4月17日、ジンバブエの独立式典に出席し演奏、群衆がなだれ込むほどの騒ぎとなった。6月10日、アルバム『Uprising』を発表。(「Coming In From The Cold」「Work」「Zion Train」「Could You Be Love」「Redemption Song」など。)
5月30日、ヨーロッパ・ツアーを開始。6週間の間に12ヶ国31都市を回り、100万人を動員した。マイアミで休養し8月に体調を崩す。9月16日ボストンからアメリカ・ツアーを開始し、9月19日にはマジソン・スクエア・ガーデンでコモドアーズとジョイント・コンサート。9月20日、体調を壊し休養し翌日、ニューヨークのセントラル・パークでジョギング中に倒れた。9月22日に脳腫瘍と診断され、9月23日にはピッツバーグのスタンリー・シアターでラスト・コンサートを決行、「Get Up, Stand Up」でコンサートを終えた。
1983年5月23日、アルバム『Confrontation』が発表された(「Chant Down Babylon」「Buffalo Soldier」「Blackman Redemption」「Stiff Necked Fools」「Rastaman Live Up」など)。大ヒット曲「Buffalo Soldier」を含む未発表曲とジャマイカ産シングル曲を集めたタフ・ゴングとアイランドの共同制作作品となっている。