ホロコースト(Holocauste)はフランスのサラブレッドである。1896年に生まれ、イギリスの三冠馬フライングフォックスやフランスの四冠馬パース (Perth) と同世代である。
ホロコーストは2歳時にはパースを上回る成績をあげ、フランスの2歳チャンピオンとなった。3歳の春にはパースと争ってライバルとなったが、フライングフォックスと対戦するため渡英してダービーステークス(イギリスダービー)に出走し、そこで死んだ。ライバルがいなくなったパースはその年四冠を達成した。
血統
ホロコーストの母、ブギ (Bougie) は2歳の時に重賞を勝った馬である。産駒でホロコーストの1歳上にあたるガルデフォー (Gardefeu) は1898年にリュパン賞やジョッケクルブ賞(フランスダービー)に勝ち、さらにサブロン賞(現在のガネー賞)やコンセイユミュニシパル賞(英語版)(凱旋門賞の前身ともいえる当時の古馬の国際大レース。)にも勝った[3]。
父のルサンシー(wikidata) (Le Sancy) は、ダリュー賞、サブロン賞、ドーヴィル大賞典(2回)などに勝った。1895年生まれの産駒ルサマリテン(wikidata) (Le Samaritain) は、ガルデフォーには敵わなかったが、ダリュー賞やギシュ賞(英語版)に勝った[4]。
ホロコーストの父系概略図
- ※馬名(原語)、生年、生産国(FRAはフランス、GBはイギリス) - 主要勝鞍(Cはカップの略.CSは種牡馬チャンピオン)[注 1]
- ※太字は特に主要な競走の優勝馬
- ※赤字は牝馬
2歳時(1898年)
ホロコーストがデビューする頃には、半兄のガルデフォーがフランスダービーに勝った後だったので、ホロコーストも相応の期待をされていた。ホロコーストはデストリエ賞に勝ち、10月のグラン・クリテリム(1600m)、11月のクリテリウム・ド・メゾンラフィット(英語版)(1200m)も楽勝し、文句なしにこの年のフランス2歳チャンピオンとなった[3]。
一方、パースは小柄な安馬だった。3戦目で初勝利をあげ、グラン・クリテリウムで着外に終わったあと、クリテリウム国際(1000m)に勝った[5]。
3歳時(1899年)
年が明けると、4月に春緒戦のラグランジュ賞(2000m)で、ホロコーストはミー (Mie) という穴馬に不覚を取って2着に敗れてしまった。しかしその後は危なげなく、ビエンナル賞、ラロシェト賞[注 2]を連勝し、リュパン賞では2着のヴェラスケス (Velasquez) に6馬身も差をつけて楽勝した[3][7]。
対するパースは、オカール賞(2500m)、ダリュー賞(2100m)、プール・デッセ・デ・プーラン(フランス2000ギニー、1600m)と連勝し、ともに3連勝で両者はフランスダービーで対決することになった[5]。
前年チャンピオンのホロコーストは1.5倍の大本命で、挑戦者パースは4.5倍の2番人気だった。ホロコーストは、なぜかスタートで少し不自然に立ち遅れた。エドゥアール・ワトキンス (Edouard Watkins) 騎手は、序盤の遅れを挽回しようとして無理に馬群に突っ込んでいった挙句、取り囲まれて行き場を無くしてしまった。その間にパースが抜け出し、ホロコーストがやっと馬群から抜けだした頃には既に大きな差が開いてしまっていた。結局、フランスダービーはパースが勝ち、半馬身差の2着にヴェラスケスが入った。ホロコーストはそこからさらに6馬身離れた3着に終わった。リュパン賞でホロコーストがヴェラスケスに6馬身差で勝ったことを思えば、まともに走りさえすればホロコーストがパースに何馬身も差をつけて勝っていたはずだと考えられ、ホロコーストのワトキンス騎手はたいへんな批難を受けた[8][5][3]。
陣営はホロコーストの名誉を取り戻すため、3日後のイギリスダービーへの出走を決めた。エプソム競馬場のダービーで必勝を期すため、当時の世界的な名騎手トッド・スローン(英語版)に騎乗を依頼した[3][9]。
イギリスダービーでライバルになりそうなのが、ウェストミンスター公爵ヒュー・グローヴナーのフライングフォックスだった。フライングフォックスは3歳になって本格化し、2000ギニーを勝ってきた。地元のフライングフォックスは3.5倍の本命だったが、フランスからやって来たホロコーストも単勝6倍の対抗馬に支持された[10][11]。
ダービーの前夜、ホロコーストの脚に腫れがあることがわかったが、治療を行なって出走した。レースはスタートの失敗で何度も[注 3]やり直しになり、レースが成立するのは1時間ほども遅れた。このスタートの時点で既にホロコーストが明らかに跛行していたと伝える報道もある[12][3][13][14]。
レース序盤から、この年三冠馬となるフライングフォックスと競り合って2頭の一騎討ちになった。勝負どころで、ホロコーストのスローン騎手は、ホロコーストはまだ本気で走っておらず、フライングフォックスに勝てると確信していた。しかし、ホロコーストは突然転倒し、フライングフォックスはそのままキャンターでゴールへ向かい優勝した。ホロコーストは前脚の繋を骨折しており、予後不良となった。解剖によって、ホロコーストはフランスダービーのスタートで出遅れた時に既に骨に亀裂が入っていたのだろうと結論づけられた。しかし、ダービー直前の調教では、そのような様子もみせずに6ハロンの調教をこなしていた、とする報道もある[3][10][13][14][11]。また、トッド・スローン騎手の「モンキー乗り」と呼ばれる騎乗スタイルが、ホロコーストの前脚に余計な負担をかけて骨折に至ったのだとして、スローン騎手の騎乗スタイルを批判する者もあった[12][9]。
ダービー当日の朝、ホロコーストの馬主のブルモンは、ホロコーストを1万ギニー(約11,000ポンド)で売って欲しいという話を断っていた。ダービーの賞金はその約半額の6000ソブリン(=6000ポンド)である。ダービーのあと、ホロコーストの遺骸は解体され、肉(犬や猫の餌として)、骨、皮が売却され、ブルモンはその合計額2ポンド17シリングを受け取った[12]。
ホロコーストの死後
その後、フライングフォックスはイギリスにとどまって秋にセントレジャーステークスを勝ち、イギリス史上8頭目の三冠を達成した。フランス国内に敵がいなくなったパースは、パリ大賞、ロワイヤルオーク賞を勝ち、フランス四冠を成し遂げた。この四冠は2014年までのあいだ、パースしか達成していない。
パースは引退後、種牡馬になってフランスのチャンピオンサイヤーになった。フライングフォックスもフランスへ輸入され、グーヴェルナン(wikidata) (Gouvernant) やアジャックス (Ajax) を出して大成功した。一方、ホロコーストの父ルサンシーは、最良の産駒を失ったので、競走成績ではホロコーストに遠く及ばなかったルサマリテンがルサンシーの後継種牡馬になった。ルサマリテンの産駒にはロアエロド(wikidata) (Roi Herode) が登場し、さらにその子ザテトラークが登場すると、ルサマリテンの系統は素晴らしいスピード血統として栄えることになった。
血統表
脚注
参考文献
注釈
- ^ 『最新名馬の血統 種牡馬系統のすべて』および『Family Tables of Racinghorses Vol.IV』、『日本の種牡馬録1』などより作成
- ^ このラロシェト賞は、現在のジャンプラ賞に相当する競走である。当時、競走馬を生産した生産者がそのまま馬主となっているものだけが出走できる「トリエナル賞 (Prix Triennal)」という競走があり、これは2歳戦、3歳戦、4歳戦などがあった。ホロコーストが勝ったのはこのうち3歳戦で、ホロコーストが勝った年はこれらの競走に「ラ・ロシェト賞」という名が付けられていた。このラ・ロシェト賞は2歳用、3歳用、4歳用に分かれており、後にはさらに牡馬用と牝馬用に分割された[6]。なお、現在の「ラロシェト賞(英語版)」と呼ばれている競走は2歳戦である。
- ^ 当時はスタート地点に馬が集まり、合図で一斉にスタートするという方式だった。現在のゲート式に比較すると、スタートで各馬には多少の前後は生じるが、スタートでのちょっとした遅れは長いレースにとっては無視できる誤差と考えられていた。しかし、それを上回るほど、各馬の発馬が揃わなかった場合にはやり直しになる。このときは「半ダースほどの失敗の後」やっと発走にこぎつけた、と伝えられている。
出典
関連項目
外部リンク
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