初代ブルーム=ヴォークス男爵ヘンリー・ピーター・ブルーム(英語: Henry Peter Brougham, 1st Baron Brougham and Vaux, PC, QC, FRS、1778年9月19日 - 1868年5月7日)は、イギリスの政治家、貴族。1810年にホイッグ党の庶民院議員に当選して政界入りし、1830年から1834年にかけての第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイを首相とするホイッグ党内閣に大法官(貴族院議長)として入閣し、第一次選挙法改正法案の貴族院通過に尽力した。姓名はブルーアムとも表記される。
経歴
スコットランド・エディンバラ・カウゲート(英語版)にイングランド・ウェストモーランド・ブルーム・ホール(英語版)を本拠とする地主ヘンリー・ブルーム(英語版)とその妻エレノア(旧姓セイム)(Eleanor Syme)の長男として生まれる[2][4]。
エディンバラ高校(Edinburgh High School)を経てエディンバラ大学へ進学[5]。1803年には王立協会フェローとなる[2]。1808年にはリンカーン法曹院で学び、法廷弁護士となる[5][2]。
1810年にキャメルフォード選挙区(英語版)から選出されてホイッグ党所属の庶民院議員となったが、1812年の選挙で議席を失った。以降数年にわたって議会に議席をもたなかったが、1815年にウィンチルシー選挙区(英語版)から選出されて庶民院議員に復帰し、1830年までこの選挙区から選出された。1830年にはナレスバラ選挙区(英語版)とヨークシャー選挙区(英語版)と選挙区を変えながら1830年の叙爵まで庶民院議員を務めた[2][1][5]。
所得税廃止、奴隷制廃止、過酷な刑罰の廃止、労働者階級への教育の普及などを主張し、ホイッグ左派として知られた、
党内では党首の第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイの側近であり、1830年11月22日にグレイ伯を首相とするホイッグ党政権が発足すると、連合王国貴族爵位ウェストモーランド州におけるブルームのブルーム=ヴォークス男爵(Baron Brougham and Vaux, of Brougham in the County of Westmorland)に叙されて貴族院議員に列するとともに[1]、大法官に任じられた[5]。当時の大法官は貴族院議長の役割も果たしており、第一次選挙法改正法案の貴族院通過に尽力した。
1834年のグレイ伯の辞任とともに辞職した。以降は政治的影響力を弱めた。
息子がなく、1830年創設のブルーム=ヴォークス男爵は廃絶濃厚だったので、1860年には弟ウィリアム(英語版)を特別継承者(special remainder)とする連合国貴族爵位ウェストモーランド州におけるブルームおよびカンバーランド州におけるハイヘッド城におけるブルーム=ヴォークス男爵に叙せられた[5][2]。
1868年5月7日にフランス・カンヌで死去した[2]。死去とともに1830年創設のブルーム=ヴォークス男爵位は廃絶した。1860年創設のブルーム=ヴォークス男爵位は弟ウィリアム(英語版)が継承した[5]。
栄典
爵位
1830年11月22日に以下の爵位を新規に叙せられた[5][2]。
- ウェストモーランド州におけるブルームの初代ブルーム=ヴォークス男爵
- (1st Baron Brougham and Vaux, of Brougham in the County of Westmorland)
- (勅許状による連合王国貴族爵位)
1860年3月22日に以下の爵位を新規に叙せられた[5][2]。
- ウェストモーランド州におけるブルームおよびカンバーランド州におけるハイヘッド城の初代ブルーム=ヴォクス男爵
- (1st Baron Brougham and Vaux, of Brougham in the County of Westmorland and of Highhead Castle in the County of Cumberland)
- (勅許状による連合王国貴族爵位。彼の弟ウィリアム(英語版)とその男系男子を特別継承者とする規定付き)
その他
家族
1819年4月1日にトマス・イーデン(第3代準男爵サー・ロバート・イーデンの次男)の娘メアリー・アン・イーデン(Mary Anne Eden, 1785年-1865年)と結婚[5][2]。彼女との間に以下の2子を儲けた[2]。
- 長女サラ・エレノア・ブルーム( Sarah Eleanor Brougham, 1820年-不明)
- 次女エレノア・ルイーザ・ブルーム(Eleanor Louisa Brougham, 1822年-1839年)
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク