プロイセン領ポーランド
プロイセン領ポーランド (ポーランド語 : Zabór pruski ) は、旧ポーランド・リトアニア共和国 領のうち、18世紀後半のポーランド分割 でプロイセン王国 が獲得した地域[ 1] 。プロイセンは西ポーランドの141,400 km2 (54,600 sq mi) におよぶ領土を獲得した。1772年にロシア帝国 主導で第一次分割 が、1793年に第二次分割 が、そし1795年に第三次分割 が行われ、以後123年間にわたり独立国家ポーランドは地上から姿を消した[ 2] 。
歴史
プロイセン王国 (19世紀後半からはドイツ帝国 )は、3度のポーランド分割 すべてで領土を拡大した[ 1] 。
ポズナン に入るヤン・ヘンリク・ドンブロフスキ (1806年)
1772年の獲得地域は、かつてドイツ騎士団 が支配していた地域の西半分にあたる王領プロイセン とほぼ重なる。フリードリヒ2世 は、新領に57475世帯のプロイセン人を入植させ、新領土の支配を確固たるものとした[ 3] 。同時に行政言語として王国本土と同様にドイツ語 が普及し、ポーランド語 が隅へ追いやられる契機ともなった[ 4] 。1793年、プロイセンはグダニスク (ダンツィヒ)、トルン 、1457年以来のポーランド王冠領 の一部を獲得した。併合されたヴィエルコポルスカ では、翌1794年にヤン・ヘンリク・ドンブロフスキ らがクヤヴィ で蜂起したが、ロシアと戦っていたコシチュシュコ がマチェヨヴィツェの戦い でロシア軍に捕らえられると、こちらの反乱も終息した(第一次ヴィエルコポルスカ蜂起 )。1795年の第三次ポーランド分割では、プロイセンはポドラシェ とマゾフシェ の残部、それにワルシャワ を獲得した。なお、約20年後にワルシャワはフリードリヒ・ヴィルヘルム3世 によりロシアに割譲されている[ 5] 。
1806年、フランス帝国 のナポレオン・ボナパルト に協力していたドンブロフスキらは、第二次ヴィエルコポルスカ蜂起 を起こした。第四次対仏大同盟 に参加していたプロイセンがナポレオンに完全敗北を喫したのち、フランスは第一次分割領を除くプロイセン領ポーランドを中心にワルシャワ公国 を衛星国 として建設した。しかしロシア遠征 に失敗したナポレオンが没落すると、1815年のウィーン会議 でワルシャワ公国は廃止され、この地域はプロイセン領に戻った[ 1] 。
第三次ヴィエルコポルスカ蜂起(1846年)中のミウォスワフの戦い
ドイツ帝国 (1871年 - 1918年)
ドイツ帝国内のポーランド人住民の割合(1910年の統計)
1846年、ルドヴィク・ミェロスワフスキ 率いる第三次ヴィエルコポルスカ蜂起 が勃発した。この反乱は、ポーランドを分割した三国すべてに対するものだった[ 6] が失敗し、254人の叛徒がベルリンで大逆罪 の罪に問われた。同年にはポズナン周辺でも反乱が発生し、2年後の1848年には諸国民の春 の一部としてポーランド国家委員会 率いる第四次ヴィエルコポルスカ蜂起 が起こった。しかしこれもプロイセン軍に鎮圧され、1500人のポーランド人がポズナン城に投獄された。そして1918年、プロイセンの後身ドイツ帝国 が第一次世界大戦 に敗れて革命 が起き、解体したのを見たポーランド人は第五次ヴィエルコポルスカ蜂起 を起こし、ついにポーランド第二共和国 として再独立を果たした[ 4] 。
社会
プロイセンの拡大。黄色の部分がポーランド分割 で獲得された領土。
18世紀後半に繰り返された分割によってポーランドを獲得した当初、プロイセン当局は現地の民族や言語的な問題に特に大きな関心を払っておらず、現地のポーランド語の運用にも寛容であった[ 7] 。裁判記録はラテン語 とポーランド語 で取られるべきとされ、裁判そのものはラテン語とフランス語 で行われることが定められていたが、現地語の通訳が付けられることも定められていた[ 7] 。その後、プロイセンはナポレオン戦争で一時的にポーランドを喪失し、ウィーン条約 によってかつて分割したポーランドの一部を再び領土とした[ 8] 。ウィーン条約はポーランド国家の復活を認めなかったが、プロイセン領内におけるポーランド人に対する一定の配慮をプロイセン当局に要求した[ 8] 。
1830年代に入るとこのような状況は一変し、極端なドイツ化 政策が推し進められた[ 8] 。1832年にはプロイセン領ポーランドのポズナン大公国 (ポーゼン)で「言語令」が発布され、行政言語がドイツ語と既定された[ 8] 。このような政策は政策担当者によって強弱が変動したが、1850年代には法律の完全なドイツ語化や中等教育機関であったギムナジウム におけるポーランド語の使用が排除されていった[ 9] 。
それでもプロイセン政府によるドイツ化政策は、当初はおおむね政府・行政機関のドイツ化であった[ 9] 。しかし、1871年 にドイツ帝国 が成立すると、プロイセン領ポーランドもその一部となり、ポーランド人たちは激しい「ドイツ国民化」に晒されるようになった[ 10] 。
もともとプロイセンとポーランドは宗教などで相いれない部分が多く、ビスマルク の文化闘争 などに対しては大規模な騒動が起きた[ 11] 。フリードリヒ2世は、第一次分割で獲得した領土のドイツ化のために30万人に上るドイツ人を入植させた[ 12] 。
しかしプロイセン政府の意図に反して、社会の少数派、弱者となったポーランド人は組織性を増し、むしろポーランド国民意識が高まる結果となった[ 11] 。教育面では、プロイセン領ポーランドはロシア領やオーストリア領のそれにくらべて高い水準にあったが、同時に過激なポーランド語排斥とドイツ語の導入が押し進められ、1901年から1904年にドイツ化に反発して起きたヴジェシニャ子供ストライキ に対して、当局はドイツ語教科書や宗教教育を拒否したものを迫害し、投獄するなど締め付けの強化で応えた[ 11] [ 1] 。
経済
プロイセン政府の政策により、プロイセン領ポーランドは旧ポーランドで経済的に最も発達した地域となった[ 11] 。ドイツ政府は効率的な農業、工業、制度や運輸産業を支援した[ 11] 。
行政区画
プロイセンは、第一次分割では36,000 km²の領土と約60万人の人口を獲得した。第二次分割では58,000 km²と約100万人、第三次分割では55,000 km²と約100万人を得た。全体としてプロイセンは旧ポーランド・リトアニア共和国の2割に当たる領土 (149 000 km²) と23パーセントにあたる人口(260万人)を手に入れたことになる[ 13] 。歴史的地域を考えると、プロイセンが獲得した領土の大部分はヴィエルコポルスカ (大ポーランド)にあたる。
プロイセン王国は、3回のポーランド分割で得た領土を以下のように区分した。
行政区画は時とともに変化した。また、ポズナン を中心とするプロイセン領ポーランド西部には、1815年にプロイセンとの同君連合としてポズナン大公国 が建てられたが、1848年以降ポーゼン州 に改められた。
脚注
^ a b c d Norman Davies (2005), “Part 3. Preussen: The Prussian Partition” , God's Playground. A History of Poland: Volume II : 1795 to the Present (Oxford University Press): pp. 83–101, ISBN 0199253404 , https://books.google.ca/books?id=9Tbed6iMNLEC&lpg=PP1&pg=PA83#v=onepage&q&f=false November 24, 2012 閲覧。
^ Davies, Norman. God's Playground : a history of Poland. Revised Edition. Oxford: Clarendon Press, 2005.
^ Ritter, Gerhard (1974). Frederick the Great: A Historical Profile . Berkeley: University of California Press. pp. 179–180.. ISBN 0-520-02775-2
^ a b Andrzej Chwalba , Historia Polski 1795-1918 , Wydawnictwo Literackie 2000, Kraków , pages 175-184, and 307-312. ISBN 830804140X .
^ Norman Davies (1996). Europe: a history . Oxford University Press. pp. 828–. ISBN 978-0-19-820171-7 . https://books.google.com/books?id=jrVW9W9eiYMC&pg=PA828 February 2, 2011 閲覧。
^ Marian Zagórniak, Józef Buszko, Wielka historia Polski vol. 4 Polska w czasach walk o niepodległość (1815 - 1864) . "Od niewoli do niepodległości (1864 - 1918)", 2003, page 186.
^ a b 割田 2017 , p. 175
^ a b c d 割田 2017 , p. 176
^ a b 割田 2017 , p. 177
^ 割田 2017 , p. 178
^ a b c d e Andrzej Garlicki, Polsko-Gruziński sojusz wojskowy , Polityka : Wydanie Specjalne 2/2008 , ISSN 1730-0525, pp. 11–12
^ Jerzy Surdykowski, Duch Rzeczypospolitej , 2001 Wydawn. Nauk. PWN , 2001, page 153.
^ Piotr Stefan Wandycz , The Price of Freedom: A History of East Central Europe from the Middle Ages to the Present , Routledge (UK), 2001, ISBN 0-415-25491-4 , Google Print, p.133
参考文献
関連項目