Clan Bruce
Brùs
クレスト : A lion stantan Azure armed and langued Gules
座右の銘
FUIMUS 概要 地域
Lowlands 地区
Fife 氏族長
The Rt. Hon. Andrew Douglas Bruce
The 11th Earl of Elgin and 15th Earl of Kincardine 拠点
Broomhall House 過去の拠点
Lochmaben Castle Clackmannan Tower
Clan Bruceのセプト
Airth, Bruwes, Bruss, Bruc, Bruys, Brues, Brice, Bryce, Bruce, Bruice, Bruis, Bruze, Broce, Brois, Broiss, Brose, Broise, Brouss, Brus, Bruse, Carlysle, Carruthers, Crosbie, De Brix, Leggat, Randolph, Stenhouse
派生氏族
Bruce of Elgin (chiefs)
Bruce of Kincardine
[ 1] See also:
Bruce baronets
敵対氏族
Clan Comyn Clan MacDougall
ブルース氏族 (スコットランド・ゲール語 : Clann Brus)は、スコットランド ・キンカーディン (英語版 ) 出身の氏族 である。この氏族は14世紀 に2人のスコットランド王 を出した王家であった。
歴史
氏族の起源
ブルース の姓は、フランス ・ノルマンディー のシェルブール とヴァロネ (フランス語版 ) の間に位置して、現在ではブリ (フランス語版 ) と呼ばれる地に由来するフランス語 のde Brus ないしde Bruis から来ている[ 2] 。イギリス で記録されている最初の一族の者は、1106年 にイングランド 国王 ヘンリー1世碩学王 がタンシュブレーの戦い で勝利した後、ともにイングランド に来た初代アナンデイル領主ロバート・ドゥ・ブルース (英語版 ) であった[ 2] 。 彼はヨークシャー にて80の荘園を与えられ、後にスケルトン (英語版 ) 周囲にて13の荘園を与えられた。1124年 に即位したてのスコットランド 国王 デイヴィッド1世聖王 からアナンデイルの領主の地位を授かった[ 1] [ 2] 。ロバートはギスボロウ小修道院 (英語版 ) を設立した[ 2] 。一族の祖であるロバート・ドゥ・ブルースは1066年 にウィリアム1世征服王 とともにイングランドに来たノルマンディー の騎士 であったと長いこと叙述されてきた[ 3] 。しかしながら、ヘイスティングズの戦い の全体的には信用することが出来ない名簿からすると、これは偽造である[ 3] 。イングランド、スコットランド双方の系統の子孫である初代アナンデイル伯ロバート・ドゥ・ブルースがイングランドに来たのは1106年 であった[ 1] [ 4] 。
ロバート・ドゥ・ブルースはデイヴィッド王子、後のスコットランド国王デイヴィッド1世に同伴する騎士であった[ 5] 。1124年 にはデイヴィッド1世による王国の北部奪還に従事している[ 5] 。 イングランドにて神聖ローマ皇后マティルダ とブロワ伯スティーブン との間で内戦が勃発するとデイヴィッド1世は軍を率いて同国に侵攻した[ 5] 。しかしながらロバート・ドゥ・ブルースはデイヴィッド1世には従わず、その代わりにイングランド側に加勢して1138年 のスタンダードの戦い (英語版 ) にて今、ではアナンデイルの地の領主として知られている自身の息子を捕虜とした[ 5] 。 初代アナンデイル領主ロバート・ドゥ・ブルースは1141年 5月11日 に没してギスブルンの地に埋葬された[ 1] 。
王統の根拠
ブルース氏族のスコットランド王位請求の根拠は、1219年 に第4代アナンデイル領主ロバート・ドゥ・ブルース (英語版 ) がハンティンドン伯デイヴィッド の娘でスコットランド国王ウィリアム1世獅子王 の姪にあたるイゾベル・オブ・ハンティンドン (英語版 ) と結婚したことから来ている[ 5] 。この結婚はイングランド、スコットランド双方の地を添えて両家に莫大な富をもたらした[ 5] 。2人の息子で、'競合者' として知られる第5代アナンデイル領主ロバート・ドゥ・ブルース (英語版 ) は時には王位後継者(タニスト) であった。スコットランド国王アレグザンダー3世 の死亡時にブルースとジョン・ベリヤル の双方が継承を主張した。アレグザンダー3世の孫娘であるノルウェーの乙女マルグレーテ(マーガレット) が後継者に指名されたものの、彼女は1290年 に王位を求めてスコットランドへ渡航中に亡くなった。彼女の死から程なくしてブルース家とベイリャル家 (英語版 ) 及びそれぞれの支援者との間での内戦を恐れたことから、スコットランド王国の守護官 (英語版 ) (摂政 )は内戦を回避するために隣国のイングランド国王エドワード1世長脛王 に請求者達の仲裁を求めた。スコットランドをウェールズ と同じように征服してブリテン島 全土を支配することを長いこと待っていたエドワード1世はこれを好機と見做した。1292年 にエドワード1世はイングランドに忠誠を誓ったベイリャルの方を選んだ。 しかしながら直にベイリャルはエドワード1世に反旗を翻し、最終的には敗北して1296年 のダンバーの戦い (英語版 ) 後に退位すること余儀なくされた[ 1] 。
王冠の獲得
スコットランド国王ロバート1世 とイザベラ・オブ・マー 。
ジョン・ベイリャルの廃位によってスコットランドは事実上、君主抜きとなった。ロバート・ザ・ブルース はベリック・アポン・ツイード にてエドワード1世に忠誠を誓ったものの、翌年のスコットランドの反乱に加わった際にはこの宣誓を破棄した。1297年 の夏に再びエドワード1世に忠誠を誓い、これはアーバインの降伏 (英語版 ) として知られている。ブルースは、スターリング・ブリッジの戦い の期間中はスコットランド側につく姿勢を見せたもののフォルカークの戦い 後にエドワード1世に勝利が戻るとイングランド側につき、アナンデイル (英語版 ) とカリック (英語版 ) のブルースの地は、エドワード1世の支配権並びにその従者への譲渡から逃れることが出来た。ブルースにはエドワード1世への忠誠こそが生き残れると思えたのかもしれない。
ブルースとその王位を巡るライバルであったジョン3世・カミン(赤毛のカミン) (英語版 ) はウィリアム・ウォレス から「スコットランド王国の守護官」の地位を継承したものの互いの敵対心はスコットランドの安全を脅かした。ダンフリーズ のグレイフィアーズ教会の中央分離帯にて両者の会談が行われることが調整された。ブルースはカミンの胸を突き刺して殺し[ 5] 、その結果、ローマ教皇 クレメンス5世 によって破門 された。ロバート・ザ・ブルースは1306年 にスクーン にてスコットランド国王ロバート1世 として戴冠した。ロバート1世はスコットランド軍を率いて1314年 のバノックバーンの戦い にてイングランド軍に完勝した [ 1] 。
1334年 にブルース王家の血縁者を主張するトーマス・ブルースがカイルにてロバート・スチュワート とともにイングランドに対して立ち上がった[ 5] 。
ロバート1世没後
1329年 にロバート1世が死ぬと、その息子であるデイヴィッド2世 がスコットランド国王となった。1346年 にデイヴィッド2世はフランス との「古い同盟 」の条項に従って同国に関心を抱いていたイングランド南部に侵攻するもネヴィルズ・クロスの戦い で大敗して捕虜となり、同年の10月17日 にイングランドに収監されて7年間に渡って同国に拘留された。和平交渉の後にデイヴィッド2世はイングランドからスコットランドに帰国してエディンバラ城 にて統治を行っていたが、1371年 に子を残さないまま不慮の死を遂げた。そのため王位はスチュワート家 に移っている[ 1] 。
エリザベス朝 下の1597年 にエドワード・ブルース卿 はキンロス修道院 (英語版 ) の聖職禄一時保有者となり裁判官に任命されている[ 5] 。1601年 には、キンロス卿 の称号付きで議会の貴族議員に任命されている[ 5] 。1603年 のスコットランド国王ジェイムズ6世 によるイングランド王位請求にエドワード・ブルースは同行している[ 5] 。その結果、エドワード・ブルースは後に記録長官 として裁判所の役人に任命されている[ 5] 。1608年 にはキンロスのブルース卿 としてロード・オブ・パーラメント に叙せられている[ 5] 。1633年 にはエドワード・ブルースの息子であるトマス・ブルース (英語版 ) が初代エルギン伯爵 に叙せられている[ 5] 。第4代エルギン伯 が嗣子を残すことなく没すると、同称号は既にキンカーディン伯爵 の称号を保持していたジョージ・ブルース・オブ・カルノック (英語版 ) の子孫に移り、結果、1747年 に2つの伯位が統一された[ 5] 。
第7代エルギン伯トーマス・ブルース は外交官で、1799年 から1803年 まで在オスマン帝国 大使を務めた。彼は自身の財産の多くを、崩壊ししかかっていた大理石の彫刻作品をアテネ 、パルテノン から救い出すことに使った[ 5] 。これらは現在では概してエルギン・マーブル に帰属するところとなっている。その息子であるジェイムズ はカナダ総督 及びインド総督 であった[ 5] 。
氏族長
現在の氏族長である第11代エルギン伯アンドリュー・ブルース はスコットランドでの催し物では突出しており、スコットランド族長常任会議 (英語版 ) の招集者である。
城址
以下の城址がブルース氏族に属している。:
脚注
^ a b c d e f g Grant, James (1886). The Scottish Clans and Their Tartans . Edinburgh, Scotland: W. & A. K. Johnston Limited. p. 2
^ a b c d A. A. M. Duncan (2004). de Brus, Robert (I), Lord of Annandale (d. 1142) . Oxford University Press. ISBN 978-0-19-861411-1
^ a b Emma Cownie (2004). Brus , Robert de (supp. d. 1094) . Oxford University Press. ISBN 978-0-19-861411-1
^ Blakely, Ruth Margaret (2005). “Robert de Brus I:Founder of the Family”. The Brus family in England and Scotland, 1100–1295 . Woodbridge, UK: Boydell Press. pp. 8–27. ISBN 978-1-84383-152-5
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q Way, George; Squire, Romily (1994). Collins Scottish Clan Encyclopedia. (Foreword by The Rt Hon. The Earl of Elgin KT, Convenor, The Standing Council of Scottish Chiefs ) . Collins. pp. 82–83. ISBN 978-0-00-470547-7
関連項目
参考文献