ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領 (ハノーファー選帝侯領)
Kurfürstentum Braunschweig-Lüneburg (Kurfürstentum Hannover)
(国旗)
(国章)
(1789年)
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルクせんていこうりょう、ドイツ語 : Kurfürstentum Braunschweig-Lüneburg )、またはハノーファー選帝侯領 (ハノーファーせんていこうりょう、ドイツ語 : Kurfürstentum Hannover またはKurhannover )は、神聖ローマ帝国 の9番目の選帝侯 が領する領邦 である。1692年 にブラウンシュヴァイク=カレンベルク侯領を母体として成立し、1708年 に帝国議会 によって正式に承認された
選帝侯家はヴェルフ家 の後裔のブラウンシュヴァイク=リューネブルク家の一支流であるハノーファー家 である。ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公領 は相続によって分割と集合をくりかえしていた。カレンベルク侯 は相続によってヴォルフェンビュッテル侯領 を除くブラウンシュヴァイク=リューネブルク諸侯領を統合した。後にカレンベルク侯家はグレートブリテン王位 を相続し、それ以降ハノーファー家と呼ばれる。なお、ヴォルフェンビュッテル侯領は1815年以降はブラウンシュヴァイク公国 を称し、ドイツ革命 まで存続した。
選帝侯が1714年にグレートブリテン王に即位したことにより、ハノーファー選帝侯領とイギリス は同君連合 となった。その結果、イギリスは望まなかったにもかかわらず、ドイツにおける領土と関わりを持つこととなった[ 1] 。しかし、同君連合であるが、ハノーファーはイギリスから独立した政府を有していた。1807年にはナポレオン・ボナパルト によって成立したヴェストファーレン王国 に併合されたが、1814年にハノーファー王国 として再び成立した。
正式名称
1692年、神聖ローマ皇帝 レオポルト1世 は大同盟戦争 の戦功により、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家のカレンベルク侯 エルンスト・アウグスト を選帝侯の地位を与えた。選帝侯の追加には反対もあり、選帝侯の地位が帝国議会 によって正式に承認されるのはエルンスト・アウグスト死後の1708年だった。カレンベルク侯領の首都ハノーファー は選帝侯領の別称となったが、正式にはKurfürstentum Braunschweig-Lüneburg (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領)の名称を使用した。
地理
1720年時点のブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国(青)とブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領(緑)の地図。選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒはザクセン=ラウエンブルク とブレーメン=フェルデン (英語版 ) を、ゲオルク・アウグストは1731年にラント・ハーデルン (英語版 ) (エルベ川 河口)を、ゲオルク3世は1803年にオスナブリュック司教領 (英語版 ) を獲得した。
選帝侯領は現北ドイツ (英語版 ) のニーダーザクセン州 の大部分を占めていた。1692年に選帝侯となった時点では、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク諸侯領のうちカレンベルク侯領をはじめゲッティンゲン侯領 、グルベンハーゲン侯領 (英語版 ) を領土とした他、ディープホルツ伯領 (英語版 ) とホーヤ伯領 (英語版 ) も選帝侯領に含まれた。
1705年、伯父であり、舅でもあったリューネブルク公ゲオルク・ヴィルヘルム が死去したことにより、選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ はリューネブルク侯領 (ツェレ)とザクセン=ラウエンブルク公国 を相続した。1715年にはデンマーク=ノルウェー 王フレデリク4世 からブレーメン=フェルデン公国 (英語版 ) を購入(1719年のストックホルム条約 で確認される)、これにより内陸国 であった選帝侯領が北海 への出口を得た。
1700年、選帝侯領には(帝国直属 (英語版 ) のプロテスタント領と同じように)改良暦 が導入された。改良暦はプロテスタント側がローマ教皇 グレゴリウス13世 の名前を避けるための呼び名であった。導入の結果、ユリウス暦2月18日の後をグレゴリオ暦3月1日が続いた。
歴史
グレートブリテン王国との関係
1714年、ゲオルク・ルートヴィヒ がグレートブリテン 王に即位したため、選帝侯領とグレートブリテン王国が同君連合 を組んだ。1719年に元スウェーデン 領のブレーメン (英語版 ) とフェルデン (英語版 ) を実質的に購入したことにより、選帝侯のドイツにおける領土も拡大した。
ゲオルク・ルートヴィヒは1727年に死去、息子のゲオルク・アウグスト が後を継いだ。1728年、皇帝カール6世 はゲオルク・アウグストにザクセン=ラウエンブルク を正式に与える代わりに、封建制での義務を課した。
ゲオルク・アウグストは1731年にはハーデルン (英語版 ) も獲得した。ハーデルンはザクセン=ラウエンブルクの飛地 であり(1689年以降は帝国により保管されていた)、ゲオルク・アウグストはハーデルンを隣のブレーメン=フェルデンに併合した。しかしカール6世の許可を得ることは難航し、ブレーメン公国とフェルデン侯国のゲオルク2世への割譲の承認は1733年までずれ込んだ。ゲオルク・アウグストは1728年と1733年の承認で400年間の伝統である等族 の維持を誓った。
カール6世死後のオーストリア の継承問題では、フランスの勢力の伸長を危惧しゲオルク・アウグストはマリア・テレジア を支持した。同時にフランスからの選帝侯領の防衛のためにヘッセンやデンマークからの傭兵をハノーファーに駐留させている。しかし、オーストリア継承戦争 開戦後は隣国プロイセン を刺激するのを恐れ、マリア・テレジアにシュレージェン を諦めフリードリヒ2世 との和平を結ぶことを奨め、1742年の皇帝選挙ではバイエルン公 カール・アルブレヒト に投票した。1743年にはゲオルク・アウグストは自らハノーファー・イギリス・オーストリア・オランダ・ヘッセンの連合軍を率いてデッティンゲンの戦い でフランス軍と戦い、勝利している。
これらのオーストリア継承戦争中のゲオルク・アウグストの行動は、ハノーファーの安定のみを考えイギリスの国益を軽視しているとして、イギリスの市民達の不興を買った。
選帝侯領の首都ハノーファー において、ハノーファー枢密院 (英語版 ) (選帝侯領の政府)は選帝侯が同君連合で治めていた帝国等族 (英語版 ) (ブレーメン=フェルデン、ハーデルン、ラウエンブルク、ベントハイム (英語版 ) )を統治するために内閣を組織したが、選帝侯は統治したほとんどの期間にイギリスに滞在した。選帝侯との直接的な連絡はロンドン のセント・ジェームズ宮殿 にあるドイツ事務局 (英語版 ) を通して行われた。
七年戦争
北米植民地戦争 の1つであるフレンチ・インディアン戦争 (1754年 - 1763年)の最中、イギリスはフランスによるハノーファー侵攻を憂慮した。ゲオルク・アウグストはプロイセンのフリードリヒ2世と英普同盟 を組み、北米での戦争を大陸ヨーロッパの七年戦争 と連動させた。
1757年夏、フランスがハノーファーに侵攻 、ゲオルク・アウグストの息子カンバーランド公 ウィリアム・オーガスタス 率いるイギリス・ハノーファー連合軍をハステンベックの戦い で破ってブレーメン=フェルデンまで追い込み、9月18日のクローステル・ツェーヴェン協定 で降伏させた。しかしゲオルク・アウグストは協定を承認せずに戦い続け、プロイセン、ヘッセン=カッセル方伯領 やブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領 の援軍の助力を借りてフランスの占領軍を追い出した。
1777年にはプファルツ とバイエルン のヴィッテルスバッハ家 が統合されたことにより、ヴェストファーレン条約 の規定に基づいてプファルツ選帝侯の選帝権が消滅した。これによりブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯の序列は8位となり、選帝侯位に付随する宮中職が帝国旗手長から内帑長官へと変更された。
ハノーファーはその後、戦争終結までほとんど戦争の影響を受けなかった。戦後はフランス革命戦争 の勃発まで平和が続いた。第一次対仏大同盟 (1793年 - 1797年)ではイギリスとハノーファーが参加したが、フランス第一共和政 は多くの戦線で戦わなければならず、時には自国領で戦ったため、ハノーファー領への影響はなかった。しかし、ハノーファーでは兵士1万6千が徴兵され、イギリス軍の指揮下で低地諸国 の対仏戦闘で戦った。1795年、ハノーファーを含む神聖ローマ帝国 は中立を宣言したが、フランスとの平和交渉は1799年に失敗した。プロイセンは1795年のバーゼルの和約 で対仏戦争を終結させたが、マイン川 より北、ハノーファー、ブレーメン=フェルデン、ザクセン=ラウエンブルクを含む神聖ローマ帝国領の中立を保証した。ハノーファーも武装中立の保証のために「境界軍」への兵士の提供を余儀なくされた。
ナポレオン戦争
第二次対仏大同盟 (1799年 - 1802年)において、ナポレオン・ボナパルト はプロイセンにイギリスの大陸ヨーロッパ領を占領するよう促した。1801年、プロイセン軍2万4千はハノーファーに侵攻し、侵攻を全く予想しなかったハノーファーは抵抗せずに降伏した。4月、プロイセン軍はブレーメン=フェルデンの首都シュターデ に到着、10月までそこに留まった。イギリスははじめプロイセンの侵攻を無視したが、プロイセンが親仏の武装中立同盟 (当時、デンマーク=ノルウェー やロシア帝国 が加入した)に参加すると、イギリスはプロイセンの船を拿捕し始めた。1801年のコペンハーゲンの海戦 の後、同盟は解体し、プロイセンは軍を撤退させた。
1803年2月25日の帝国代表者会議主要決議 により、選帝侯はオスナブリュック司教領 (英語版 ) を獲得した。オスナブリュック司教は1662年以降、2代ごとにハノーファー家 出身の人物が就任していた。
イギリスが今度は同盟国を持たずにフランスに宣戦布告する(1803年5月18日)と、フランス軍は5月26日にハノーファーに侵攻した。7月5日のアルトレンブルク協定 により、ハノーファーは敗北を認めて軍を解体され、軍馬や弾薬はフランスに引き渡された。ハノーファー枢密院はエルベ川 右岸にあるザクセン=ラウエンブルク に逃亡したが、フランス軍は直後にザクセン=ラウエンブルクも占領した。
1805年秋、第三次対仏大同盟 (1805年 - 1806年)が結成されると、フランスのハノーファー占領軍はオーストリア帝国 と戦うためにハノーファーから離れた。イギリス、スウェーデン、ロシアの連合軍はハノーファーを占領するが、12月にフランス第一帝政 が(すでに確保していない)ハノーファーをプロイセンに割譲、プロイセンは1806年初にハノーファーを占領した。
1807年のティルジット条約 の後、ナポレオンの弟ジェローム・ボナパルト を王とするヴェストファーレン王国 が成立した。ヴェストファーレン王国の領土はヘッセン選帝侯領 、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領 、プロイセン領を含む。1810年初、ハノーファー本土とブレーメン=フェルデンはヴェストファーレン王国に併合された(ただしザクセン=ラウエンブルクは併合されていない)。大陸封鎖令 を実施するために、フランス帝国は1810年末に大陸ヨーロッパの北海沿岸をデンマークの隣まで併合した。またブレーメン=フェルデン、ザクセン=ラウエンブルクなど船が通れる川近くの領土も併合した。
しかし、ゲオルク3世 の政府はフランスによる併合を認めなかった。ゲオルク3世はこの時期を通してフランスと戦争状態にあり、ハノーファー政府はロンドン で政務を継続した。ハノーファー枢密院は独自に外交を続け、(イギリスがプロイセンに宣戦したにもかかわらず)オーストリア帝国 とプロイセン王国 とのつながりをもっていた。ハノーファー軍は解体されたが、多くの士官と兵士はイギリスに向かい、国王のドイツ人軍団 (英語版 ) を結成した。この軍団はナポレオン戦争を通して反仏側で戦った唯一のドイツ人軍団である。
フランスの支配は1813年10月にロシア軍が侵攻してきたことで終わった。直後、ライプツィヒ での諸国民の戦い によりナポレオンの衛星国ヴェストファーレン王国 、ひいてはライン同盟 全体が消滅し、ハノーファー家 の統治が復活した。選帝侯領はハノーファー王国 になり、1814年のウィーン会議 で確認された。
ハノーファー選帝侯
カール4世 の金印勅書 の規定により選帝侯領は不可分と定められていた。すなわち、領土の拡張はできるが、領土を分割相続することは禁止されていた。これはブラウンシュヴァイク=リューネブルク で多くの公国が成立した結果をもたらした分割相続の伝統と相反するものであった。継承は男子長子相続 制をとったが、当時ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家が採用したサリカ法 に反するルールであったため、この変更は帝国の承認を必要とした。継承法の変更は1692年、皇帝レオポルト1世 によって承認された。
神聖ローマ帝国 は1806年に解散されたが、ゲオルク3世の政府は解散が最終決定であるとは考えず、1814年まで選帝侯とブラウンシュヴァイク=リューネブルク公を称した。
脚注
^ 18世紀には、英仏間で戦争が起きる度に、フランス軍はハノーファーを脅かした。結果、イギリスは外交と軍事上で介入せざるをえなかった。1806年にはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 がナポレオン・ボナパルト の圧力により、ハノーファー選帝侯領を併合したことにより、イギリスはプロイセン王国 への宣戦布告に至った。Auguste Himly, Histoire de la formation territoriale des États de l'Europe centrale . 1876, vol. 1, pp. 95–96.
参考文献