ファブリッツィオ・ラバネッリ (Fabrizio Ravanelli、1968年12月11日 - ) は、イタリア・ペルージャ出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード。
クラブ経歴
1986-87シーズン、18歳の時に当時セリエC2のペルージャでトップチームデビューを果たし、そのシーズンのリーグ戦26試合で5得点を記録した[1]。翌1987-88シーズンには32試合で23得点を挙げた[1]。1988-89シーズン、チームはセリエBに昇格、ラバネッリはこのシーズン13ゴールを記録した[1]。この時のチームメートには、アンジェロ・ディ・リービオが居て、多くのアシストを供給されていた[1]。1989-90シーズンにアヴェッリーノに移籍したが、7試合に出場してノーゴールに終わり、10月にカゼルターナにレンタル移籍、27試合で2得点を決めた[1]。1990-91シーズン、一度はアヴェッリーノに複帰したが、すぐにレッジアナへと移籍、そのシーズン16ゴールを挙げ、チームはセリエA昇格へあと一歩まで迫った[1]。1991-92シーズン、ゴール数こそ8と減少したが、そのプレーはユヴェントスからの関心を引いた[1]。
1992-93シーズン、子供の頃からファンであったユヴェントスFCに移籍[1]。1992年9月6日のカリアリ戦に途中交代で出場、セリエAデビューを果たしたが、この頃は控え選手扱いであったものの、3月7日のナポリ戦で初めて先発起用された[1]。このシーズンの公式戦33試合で9得点を挙げた[1]。翌1993-94シーズン、ピエルルイジ・カシラギが移籍したことで、出場時間を増やし、公式戦38試合で12得点を記録した[1]。
1994-95シーズン、リーグ戦では、チームトップのジャンルカ・ヴィアリの19得点に次ぐ15得点を挙げてスクデット獲得に貢献[2]、コッパ・イタリアでもパルマとの決勝第2戦で1ゴールを挙げるなど、トータル6ゴールを挙げて大会得点王を獲得して優勝を果たした。このシーズンはチーム内で最多となる年間30得点を挙げた[1][3]。また、9月27日にUEFAカップで対戦した、CSKAソフィア戦では1人で5ゴールを決めた[1][4]。1995年のバロンドールでは12位にランクインした[1]。1995-96シーズン、年間18ゴールを挙げてチーム得点王となった[5]。UEFAチャンピオンズリーグ決勝のアヤックス戦では先制点を奪う活躍で優勝を果たした[6]。ユヴェントスでは160試合で69得点を挙げたが[7]、チームは売却して放出することを決めた[1]。
1996年に英国史上3番目に高額な移籍金でミドルズブラに移籍[8]、開幕のリヴァプール戦でハットトリックを決めた[1][4]。チームはこのシーズンのFAカップ、フットボールリーグカップで決勝まで進出した[1]。個人としてはリーグ戦で16ゴールを挙げた[1]。しかし、チームが2部に降格したためチームを去った[9]。この時、トッテナムからのオファーを受けたが、マルセイユでのプレーを選んだ[5]。マルセイユでの2シーズン半で84試合に出場し、31得点を記録、1999年にはUEFAカップ決勝に進出したが、パルマに敗れて準優勝に終わった[1]。
1999年12月にラツィオへ移籍[1]。ここでは控え選手としてプレーし、2シーズンで42試合に出場し、10得点を挙げるに留まったが、セリエA、コッパ・イタリア優勝を果たした[1]。そして、ダービー・カウンティ(プレミアシップ)に移籍、34試合で11得点を挙げたが、2部降格を防ぐことは出来なかった[1]。ダンディー(スコティッシュ・プレミアリーグ)で短期間プレーした後、2004年、もう一度、故郷にして古巣であるペルージャでプレーするという、亡き父との約束を果たすため、ペルージャに加入するも、チームのセリエA残留は果たせなかった[1]。翌シーズンもチームに留まり、シーズン終了後に36歳で現役を引退した[1]。
代表経歴
1995年3月25日のユーロ予選、エストニア戦で初ゴールを決める代表デビューを果たし、同予選では7試合で4得点を決め、本大会出場に貢献した[10]。1996年のユーロ本大会では2試合に出場した[10]。
1998年のワールドカップ直前に行われた6月2日、スウェーデン戦でも先発起用されていたがものの[10]、気管支肺炎を患い、大会への参加を辞退した[11]。代表での通算成績は、22試合8得点。
人物
- ジャンルカ・ヴィアリは自身のアイドルであり、まだユヴェントスでチームメートになる以前にヴィアリが代表チームの試合でペルージャのレナート・クーリスタジアムに来た時、自身のアイドルであることを告げると、ヴィアリからはスパイクをプレゼントされた[7]。ヴィアリは自身にとっての兄の様な存在で、チームメートとして多くのことを学んだという[7]。また洋服の着こなしなど、様々な面でヴィアリを真似ていたという[7]。
- 独特のプレースタイルと特徴的な若白髪から「銀狐 (Silver Fox) 」と呼ばれた[12]。髪の毛は遺伝により8歳の頃から白くなった[1]。
- 得点後には、ユニフォームを被り、両手を広げるゴールパフォーマンスで知られていて、これは1993年3月7日のナポリ戦で先発してゴールを決めた時から行っていたものである[1]。
代表出場記録
|
代表 |
年 |
出場 |
得点
|
イタリア代表
|
1995 |
6 |
4
|
1996 |
8 |
4
|
1997 |
5 |
0
|
1998 |
3 |
0
|
1999 |
0 |
0
|
Total |
22 |
8
|
タイトル
ユヴェントス
- セリエA : 1994-95
- コッパ・イタリア : 1994-95
- スーペルコパイタリアーナ : 1995
- UEFAカップ: 1992-93
- UEFAチャンピオンズリーグ : 1995-96
ラツィオ
- セリエA :1999-00
- コッパ・イタリア : 1999-00
- スーペルコパイタリアーナ : 2000
個人
- セリエC2得点王 : 1987-88 (23ゴール)
- コッパ・イタリア得点王 : 1994-95 (6ゴール)
脚注
外部リンク