ヒは、古代の神名や人名の語尾につけられる称号。天皇およびその伴造(ともがら)を表す天孫・天神系の称号として用いられた。地祇・国神系を意味するヌシと対照をなす称号である。「ヒ」はヒコやヒメの語源でもある。
神名・人名のヒ
ヒ(日、毘、比)の語尾は神名や始祖名に見られるが、一般個人名にはほとんど見られない[1]。応神天皇期以前の人名で「ヒ」を語尾に持つものは皇室・物部氏などの天孫族系氏族、そして大伴氏・中臣氏・紀氏などの山祇族系氏族[2]の系譜に集中して見られる。代表的なものに、皇室では神武天皇の弟に「イナヒ」、開化天皇の別名「ヒコオホヒヒ」(稚日本根子彦大日日)がある。物部氏では始祖「ニギハヤヒ」、そして大伴氏の始祖「タケヒ」がある。物部氏と大伴氏は天神系氏族の代表であり、天孫族である天皇の伴造(ともがら)の中心的存在である。天孫降臨の建国神話では天皇家の始祖「タカミムスヒと物部・大伴の先祖ハヤヒ・ヒシヒは明らかに同じタイプの名前に属している」とする指摘もある[3]。
氏族系譜のヒ
新撰姓氏録にはヒを始祖とする氏族が皇別および神別すなわち天孫・天神系の84%を占める[4]。皇別はすべてタカミムスヒを始祖としている。神別は400余りある氏の内280余りがヒの始祖をもつ。その内訳はタカミムスヒ35氏、ヒギハヤヒ106氏、ツハヤムスヒ41氏、カミムスヒ53氏、ほかにアメノホヒ、ヒノハヤヒ、ヤスムスヒなどがある。一方で天孫・天神系氏族はヌシの神名や称号をほとんど持たない。これは古事記の出雲系譜や地祇系では「ヒ」の語尾を持つ神・人名がほとんど見られない一方で「ヌシ」が核の一つになっているのと対照的である。ヌシをもつ神名や称号は地方首長的な出雲系譜や地祇系にのみ集中している。このように、氏族系譜において「ヒ」と「ヌシ」は完全に対立している。「これは作為的な操作による観念上の対立ではなく現実の歴史的な対立と考えなければならない」。「これらの現象の背後には大和朝廷の支配層と土着の地方豪族の間の歴史的・政治的な対立を想定せざるをえない」[4]。これは「ヒ」に代表されるヤマト王権の支配層が「ヌシ」に代表される地方首長と対立するグループであったことを示唆する。
皇室系譜のヒ
天皇家の始祖タカミムスヒの他に、天皇系譜の始点に位置するカチハヤヒ(正勝吾勝勝速日天忍穂耳)が伝説時代の系譜に見られる。また6世紀から7世紀にかけてヒ(日)が天皇の諡号(おくりな)に4例のみ再びみられる。
天皇名
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諡号(おくりな)
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安閑天皇
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広国押建金日(ひろくにおしたけかなひ)
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用明天皇
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橘豊日(たちばなのとよひ)
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舒明天皇
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息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)
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皇極天皇、斉明天皇
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天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)
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孝徳天皇
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天万豊日(あめよろずとよひ)
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天皇は「ヒ嗣ぎの御子」と呼ばれているように、「ヒ」の子孫は天の支配を受け継ぐものと伝承されている。こうした観点から見ると、6-7世紀の天皇名のヒの用例は「ヒ」を復古的に「国家的信仰として掲げようとしていた時期の一つの名残り」であり、敏達天皇による日祀部の設置や姓氏録における各氏族に「ヒ」の始祖が加工された時期と重なる[5]。
ヒの派生としてのヒメ・ヒコ
天孫・天神系氏族の先祖名に特徴的に見られる「ヒ」の尊称は、その後「ヒメ」または「ヒミ」(ヒの女性)や「ヒコ」または「ヒキ」(ヒの男性)、またごく稀に「ヒヒ(ヒの中の第一人者)」の尊称を派生させたと考えられる。卑弥呼の時代(三世紀)にすでに国の長に「卑狗(ヒコ)」や「卑弥(ヒミ)」が見られるところから「ヒ」の名称や思想はそれ以前から存在したことが推測される。開化天皇をヒコオホ「ヒヒ」と呼ぶことも三世紀まで遡る可能性がある。
「ヒ」起源としての古代朝鮮
天孫・天神系氏族の称号として「ヒ」はその起源を古代朝鮮氏族に遡ることができる。古代朝鮮の新羅および高句麗の王名や始祖名には「解」の語尾が特徴的に現れる。「解(hae)」は「日(hae) 」の漢字による当て字と考えられており[6]、古代朝鮮の支配層はその名称語尾に日本と同じ「ヒ」を用いていたと推論できる。新羅王は2代に南解、4代に脱解、10代に奈解、12代に沾解、16代に訖解がみえ、「解」を語尾につけている。高句麗では始祖解慕漱(ヘモス)、初代東明聖王(朱蒙)は衆解[7]とも呼ばれ、2代瑠璃明王は「解儒留」、3代大武神王は「解朱留」、4代閔中王は「解色朱」、5代慕本王は「解愛婁」といい、5代まで「解」を名乗っている[8]。また初代の朱蒙は姓を高氏と「三国史記」は伝えているが、「三国遺事」は「本姓解也」と伝えている[9]。百済は高句麗と同じく扶余族出身で「解」を氏とした(『三国遺事』)。百済では王族貴族姓に「解」があり、「莫古解」、「古爾解」、「適莫爾解」(『日本書紀』)や「仇頗解」、「訓解」、「解須」、「解仇」、「解明」などが見える(『三国史記』百済本紀[10])。以上『解」は新羅、高句麗、百済の王族の姓あるいは称号として共通に使われている。解の古音は「日」の訓であり、解が日を意味したことは『後魏書』(554年)が高句麗の朱蒙(衆解)を「日子」と記していることからもうかがえる[11]。これは日本の天皇が「日の御子」あるいは「日継ぎの皇子」というのと同じ言い方である。こうした類似性はヤマト王権の「ヒ」の建国神話が古代朝鮮王朝のヒ・へ(日、解)の建国神話に由来することを示唆する。さらに日本に最も近い加羅の建国神話には始祖王に「悩窒朱日」なる名前が出てくる。末松保和によれば「悩窒朱日」の意味は「常に光る朱き日」である。 この語尾の「−−日(ヒ)」は日本の天孫天神系のヒの語尾と同じであり、新羅、高句麗、百済の王族の「ヘ(解)」と共通する。「このようにみてくると、日本のヒ型神・人名について、これを大王家が扶余系の建国神話を取り入れた際同時に朝鮮半島から入ってきた、元々は扶余にその源を発する朝鮮半島系の神・人名であろうと見るのは、ごく当然の推理だと言っていいだろう」[12]。
脚注
- ^ 一般人名にはヒの派生語であるヒコやヒメがよく用いられている。
- ^ 宝賀寿男「上古史の流れの概観試論」『古樹紀之房間』、2009年。
- ^ 溝口睦子「古代氏族の系譜」『吉川弘文館』1982年、186ページ。
- ^ a b 溝口睦子「記紀神話解釈の一つのこころみ」『文学』1973-1974年。
- ^ 溝口睦子「記紀神話解釈の一つのこころみ」『文学』1973-1974年
- ^ 解はハングルで 해(hae)」と発音し「日、太陽(해 hae)」と同じで音である(金思燁『完訳三国遺事』)。末松保和および金両基も同様の見解で「解」は古音でhaiと発音し日(ヒ)の意味に解釈できるとしている。末松保和「朝鮮古代諸国の開国伝説と国姓」、「新羅上古世系考」。金両基「朝鮮の英雄神話」、『中央公論』1972年5月号。
- ^ 衆解という名は「高句麗にも間違いなく『ーー解』の名称が経つてあったことを証明する、実に貴重な伝承である。」溝口睦子『古代氏族の系譜』(1987年)、207ページ。
- ^ 高句麗王名では初代の「衆解」以外は「解」は語尾でなく語頭に来ている。これは中国の姓にならって語頭に持ってきたためと考えられる。溝口睦子『古代氏族の系譜』(1987年)、200-208ページ。また三国遺事には「解」を氏としたことが伝えられている。「自稱名解慕漱。生子名扶婁。以解為氏焉。」(『三国遺事』北扶餘編)
- ^ 「因以高為氏(本姓解也。今自言是天帝子。承日光而生。故自以高為氏)」(『三国遺事』百済編)
- ^ 百済本記ではない。
- ^ 5世紀の金石文には高句麗初代王鄒牟(衆解、東明聖王)は「日月之子」とみえる
- ^ 溝口睦子『古代氏族の系譜』(1987年)、218ページ。