初代ケアンズ伯爵ヒュー・マッカルモント・ケアンズ(英: Hugh McCalmont Cairns, 1st Earl Cairns, PC, QC、1819年12月27日 - 1885年4月2日)は、イギリスの政治家、法律家、貴族。
保守党の政治家、また法曹として活躍。保守党党首ベンジャミン・ディズレーリの側近として2度のディズレーリ内閣に大法官として入閣した。
経歴
1819年に軍人ウィリアム・ケアンズとその後妻ロザーナ(旧姓ジョンストン)の間の三男として誕生[3]。
1838年にダブリン大学トリニティ・カレッジからバチュラー・オブ・アーツ(英語版)(BA)やバチュラー・オブ・ロー(英語版)の学位を取得して卒業。1844年にミドル・テンプルに入学して弁護士資格を取得[3]。
1852年から1866年にかけてはベルファスト選挙区(英語版)から選出されて保守党所属の庶民院議員を務めた[3]。
法律家としても活躍を続け、1856年には勅選弁護士(英語版)となり、1858年から1859年にかけては法務次官(英語版)、1866年には法務総裁、1866年から1868年にかけては上訴法廷(英語版)の裁判官(法官貴族)となる[3]。
1867年にケアンズ・オブ・ガーモイル男爵の爵位を与えられた[3]。
政界においてケアンズ卿はベンジャミン・ディズレーリと親しかった[4]。1868年2月から12月にかけて成立した第一次ディズレーリ内閣では、ディズレーリに睨まれて大法官の座を追われた初代チェルムズフォード男爵(英語版)に代わって大法官(貴族院議長)として入閣している[5][3]。さらに野党期の1869年には保守党貴族院院内総務(英語版)となったが、一会期で辞職した[6]。1874年から1880年にかけての第二次ディズレーリ内閣でも大法官として入閣した[7]。閣内でも最も首相ディズレーリと親しい閣僚の一人であった[8]。
1878年にはケアンズ伯爵の爵位を与えられた[3]。
1885年4月2日にボーンマスで死去した[3]。
栄典
爵位
その他
家族
1856年にメアリー・ハリエット・マクネイルと結婚し、彼女との間に以下の7子を儲けた[3]。
- 第1子(長男)ヒュー・ケアンズ(? - 1858年)
- 第2子(長女)リリアス・シャーロット嬢(1860年 - 1889年):ヘンリー・シャーブルックと結婚。
- 第3子(次男)第2代ケアンズ伯爵アーサー・ウィリアム・ケアンズ(英語版)(1861年 - 1890年)
- 第4子(三男)第3代ケアンズ伯爵ハーバート・ジョン・ケアンズ(英語版)(1863年 - 1905年)
- 第5子(四男)第4代ケアンズ伯爵ウィルフレッド・ダラス・ケアンズ(英語版)(1865年 - 1946年)
- 第6子(五男)ダグラス・ハリーバートン・ケアンズ閣下(1867年 - 1937年)
- 第7子(次女)キャスリーン・メアリー嬢(1870年 - 1939年):エドワード・エリオット師と結婚。
脚注
注釈
出典
参考文献
外部リンク