バーデン辺境伯領 (1112年-1803年) バーデン選帝侯領 (1803年-1806年) バーデン大公国 (1806年-1918年)
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1112年 - 1918年
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(国旗)
(国章)
国歌 : Badnerliedドイツ帝国内におけるバーデン大公国
バーデン (標準ドイツ語 : Land Baden , アレマン語 : Land Bade )は、ドイツ 南西部、現在のバーデン=ヴュルテンベルク州 に存在した領邦 。
12世紀にツェーリンゲン家 を領主とするバーデン辺境伯 領 (Markgrafschaft Baden ) として成立。中世には分割と併合を繰り返したのち、18世紀に再びバーデン辺境伯領 として再統合された。ナポレオン戦争 の中で領土を拡大し中堅領邦に成長、1803年には選帝権が与えられる。神聖ローマ帝国 解体後の1806年にバーデン大公国 (Großherzogtum Baden ) となり、1871年 にドイツ帝国 の構成国の一つとなった。
地理
近代のバーデン
ドイツの南西部に位置し、南と西の境界線はライン川 である。主要都市のほとんどはライン地溝帯 に所在しており、南(上流)側からレーラッハ (ドイツ語版 ) 、フライブルク・イム・ブライスガウ 、カールスルーエ 、マンハイム が連なる。
ライン川をはさんで南にスイス、西にエルザス (現在はフランス領のアルザス)と隣接する。ドイツ帝国の時期は、北西にプファルツ地方 (バイエルン王国の飛び地領)、北にヘッセン大公国 、北東にバイエルン王国 と接していた。東側にはヴュルテンベルク王国 があり、南のクライヒガウ (ドイツ語版 ) 地方からシュヴァルツヴァルト (黒い森)を通って走っており、ガッゲナウ (ドイツ語版 ) 付近では「蜂腰」Wespentaille と呼ばれるように領土の幅が11kmにまで狭まっている。また、南東部でプロイセン王国 の飛び地領(ホーエンツォレルン州 (ドイツ語版 ) )とも接していた。
歴史
12世紀から18世紀まで
1112年 にツェーリンゲン家 のヘルマン2世 がシュヴァーベン において辺境伯 となり、子孫(バーデン系ツェーリンゲン家)が代々所領と財産を引き継いでいったことから始まる。バーデン辺境伯という称号はヘルマン2世がバーデン=バーデン にあるホーエンバーデン城 (ドイツ語版 ) を居城としたことによる。
1475年に辺境伯となったクリストフ1世 はハッハベルク=ザウセンベルク辺境伯家 (ドイツ語版 ) を併合、バーデンバーデンに新宮殿 (de:Neues Schloss (Baden-Baden) ) を築くなどしたが、晩年は心身を弱らせ、1515年に3人の息子(ベルンハルト3世 、フィリップ (de:Philipp I. (Baden) ) 、エルンスト (de:Ernst (Baden-Durlach) ) )に統治権を譲らざるを得なくなった。クリストフ1世は1527年に死去、共同統治者の1人であったフィリップが1533年に没し、バーデン辺境伯領はバーデン=バーデン辺境伯領 (ドイツ語版 ) (ベルンハルト3世の系統)とバーデン=ドゥルラハ辺境伯領 (ドイツ語版 ) (エルンストの系統)に分割された。ドイツの宗教改革 の中で、領邦の信仰もバーデン=バーデンはカトリック、バーデン=ドゥルラハはプロテスタントと分かれた。
17世紀末に発生した大同盟戦争 では、バーデン=バーデンやドゥルラハが大きな被害が出た。バーデン=バーデン辺境伯で、神聖ローマ帝国(ハプスブルク帝国 )の名将として名をはせたルートヴィヒ・ヴィルヘルム は、ラシュタット に新たな城館を築いて本拠を移した。バーデン=ドゥルラハでもカール3世ヴィルヘルム が新たな本拠地として計画都市カールスルーエ の建設を始めた。なお、ラシュタットでは1714年にラシュタット条約 (フランスとオーストリアとの間のスペイン継承戦争 講和条約)が結ばれている。
辺境伯を称していた時代のカール・フリードリヒ
1771年 、バーデン=バーデン辺境伯アウグスト・ゲオルク (ルートヴィヒ・ヴィルヘルムの子)が嗣子なくして没する。これによって、バーデン=ドゥルラハ辺境伯カール・フリードリヒ (カール3世ヴィルヘルムの孫)が16世紀に分かれた所領を統一し、バーデン辺境伯 を称した。
カール・フリードリヒとバーデンの飛躍
19世紀初頭、バーデン辺境伯領(赤)からバーデン大公国への領土拡大
カール・フリードリヒは啓蒙絶対君主の一人と評される。啓蒙思想 に基づく諸改革を行い、重農主義 的な政策を展開する一方[ 1] 、中小領邦のひとつに過ぎなかったバーデンを帝国の中堅領邦として発展させることに成功した[ 2] 。
1789年にフランス革命 が勃発、ハプスブルク家はフランスに干渉する(フランス革命戦争 )。ハプスブルク家はドイツ諸侯に協力を要請し、バーデンはフランス攻撃の前線基地としての役割を担うこととなった。しかしフランス軍が攻勢に転じ、1795年にはライン川左岸にあったバーデン辺境伯領の領地も占領された。プロイセンがフランスと単独講和(バーゼルの和約 )する中でバーデンは窮地に陥り、フランスとの和平を模索したが、皇帝フランツ2世が戦争継続の姿勢を崩さなかったためにこの時に和平はならなかった。1796年6月にはラシュタット がフランス軍に占領され、カール・フリードリヒも国外に退避。外交官ライツェンシュタイン (Sigismund von Reitzenstein ) を派遣し、1796年8月22日にバーデンとフランスの講和条約を結んだ。内容は、バーデンの対仏同盟からの離脱、フランス軍の領内通行許可、ライン左岸領土のフランスへの割譲などである[ 1] 。1798年1月、オーストリアおよび諸領邦とフランスとの講和を目指して、ラシュタットに国際会議が招集されるが(ラシュタット会議 )、オーストリアの引き延ばし策もあって和平は成立しなかった。再開された戦争で、カール・フリードリヒは中立を厳正に守り、このことはオーストリアからの離反を意味したが、その後の対仏関係でバーデンを有利にした[ 1] 。
1803年2月、帝国代表者会議主要決議 が帝国会議と皇帝に採択される[ 1] 。帝国がライン川左岸をフランスに割譲する補償として、諸侯に対して聖界諸侯領の「世俗化」・帝国騎士の「陪臣化」をすすめるものであった。バーデン辺境伯が失ったライン川左岸の領土はわずかなものであったが、「世俗化」(コンスタンツ司教領、バーゼル司教領、ストラスブール司教領、シュパイヤー司教領のライン川右岸地区)、「陪臣化」(帝国都市ではユーバーリンゲン、プフレンドルフ、ゲンゲンバッハ、オッフェンブルク)し、またプファルツ選帝侯領 のライン川右岸地区(宮廷都市のハイデルベルクとマンハイムを含む)を接収することによって領土を拡大した。また、帝国代表者会議主要決議 によって選帝権を獲得、バーデン選帝侯 国 となった(神聖ローマ帝国自体が1806年に消滅したため、選帝権を行使することは名実ともになかった)。
バーデンが成長した理由には、ライツェンシュタインの外交手腕、ナポレオンが接近を図っていたロシアとの親族関係[ 1] (アレクサンドル1世 の皇后エリザヴェータ・アレクセーエヴナ はカール・フリードリヒの孫。なお、カール・フリードリヒの曾祖父フリードリヒ7世マグヌスの妻がホルシュタイン=ゴットルプ家 出身であり、またその娘の一人も同家に嫁いだことから、同家を介して古くから関係がある。系図 参照)、南ドイツに中規模領邦を形成させることでフランスとオーストリアの緩衝地帯とする思惑[ 1] (ヴュルテンベルク王国とバイエルン王国もこの時期に大きく拡大している)などが挙げられる。
なお1804年には、領内エッテンハイムに潜み暮らして亡命フランス貴族ルイ・アントワーヌ・ド・ブルボン=コンデ (アンギャン公)がフランス軍によって捕縛され、第一統領ナポレオンの暗殺を謀った王党派幹部として処刑される事件(冤罪)が発生している(統領政府#アンギャン公事件 参照)。
1805年、オーストリアが第三次対仏大同盟 を結んでフランスに宣戦を布告するが、バーデンはヴュルテンベルク・バイエルンとともにフランスに味方した。1805年末のプレスブルクの和約 で、バーデンはハプスブルク家からブライスガウ (南部のバーデン領の周りを取り囲んでいたハプルブルク家領。中心都市はフライブルク・イム・ブライスガウ )を割譲され、一体の領土を持つこととなった。
1806年4月、次期大公位継承者であるカール (早世した長男カール・ルートヴィヒ の子)がナポレオンの養女ステファニー・ド・ボアルネ と結婚した。
1806年のライン同盟 発足(ライン同盟規約 締結)は、神聖ローマ帝国の解体を宣言するものとなったが、バーデンにはヴュルテンベルクからの領土割譲(これについてはその後曲折があり、1810年にヴュルテンベルクとバーデンの国境条約 が締結された)と、選帝侯位に代わる大公 位をもたらした。以後、この領邦はバーデン大公国 となる。初代バーデン大公カール・フリードリヒは1811年に没し、孫のカール が大公位を継いだ。
継承問題
ナポレオン失墜に伴いライン同盟は解体、その後ウィーン会議を経て1815年に発足したドイツ連邦 に加盟した。
1817年、カールの嗣子アレクサンダーが1歳で早世した。一族で継承権を有するカールの叔父ルートヴィヒ にも嫡子はおらず、大公家は断絶の危機に瀕することとなり、継承権を有するバイエルン王マクシミリアン1世 (王妃はカールの姉カロリーネ )からの圧力にさらされた。カールはツェーリンゲン家に大公位を残すために継承法を改め、貴賤結婚 のため継承権を排除されていたカール・フリードリヒの後妻ルイーゼ(ホフベルク伯爵夫人)の子レオポルト らに継承権を認めた。1818年、カールは自由主義的な憲法 (de:Badische Verfassung (1818) ) を制定。同年末にカールは没し、ルートヴィヒ(1世)が3代大公となる。1830年にルートヴィヒ1世が没し、レオポルト が4代大公となった。レオポルトは自由主義的改革を進めた。
1840年、バーデン大公国邦有鉄道 会社を設立した。最初の路線は1840年にマンハイム・ハイデルベルク間で開通した。
1848年革命とバーデン
1848年 のパリ二月革命 が最初にドイツに波及したのは、ドイツにおいて自由主義の中心地のひとつとなっていたバーデンであった(ドイツにおける1848年革命 、バーデン革命 (英語版 、ドイツ語版 ) )。
1848年2月27日にはマンハイム民衆集会 (ドイツ語版 ) が権利章典を要求する三月要求 (ドイツ語版 ) を採択。3月1日にはバーデン邦議会 (ドイツ語版 ) 議事堂が占拠された。3月5日にはハイデルベルクで自由主義者が開いたハイデルベルク会議 で、ドイツ国民議会の準備議会 (ドイツ語版 ) を招集することが決議された。4月にはヘッカー蜂起 (ドイツ語版 ) が、9月には第二次バーデン蜂起 (ドイツ語版 ) が発生した。
1849年5月11日にはラシュタットでバーデン軍兵士の反乱が発生、大公レオポルトが国外に脱出し、プロイセンに救援を求める事態となった。6月1日にはバーデンで共和国が宣言され、ロレンツ・ブレンターノ (ドイツ語版 ) が臨時政府の長に就いた。このバーデンでの蜂起の参加者には、フランツ・シーゲル (のちに米国に移住し南北戦争で北軍の将軍となる)などがいる。7月23日、プロイセン軍がラシュタットを占領することによって、バーデンの革命、ひいてはドイツにおける1848年革命は終焉を迎えた。
ドイツ帝国へ
1856年に6代大公に就位したフリードリヒ1世 (レオポルトの次男)は自由主義的改革を進めた。フリードリヒ1世の妻はプロイセン王太子ヴィルヘルム(後のドイツ皇帝ヴィルヘルム1世 )の娘ルイーゼ であるが、1866年の普墺戦争 でバーデンはオーストリア側についた。
1866年、普墺戦争 の講和条約として結ばれたプラハ条約 により、ドイツ連邦は解体。プロイセンを中心とする北ドイツ連邦 が発足するとともに、マイン川 以南に「南ドイツ連邦」を設立することが認められた。バーデン大公国も「南ドイツ連邦」への加盟が予定されていた。1870年普仏戦争 が発生すると、バーデン大公国は南部ドイツ諸邦とともにプロイセンと同盟を結んで参戦。1871年 にドイツ帝国 の構成国となり、1918年 のドイツ革命 まで存続した。
第一次世界大戦末期の1918年10月、バーデン大公家出身で自由主義者として知られたマクシミリアン・フォン・バーデン (フリードリヒ2世 の従弟で次期大公位継承者)が帝国宰相 に任じられた。
ドイツ革命によって君主制が廃止され、バーデン共和国 (Republik Baden , ヴァイマル共和政 下の州)となる。
歴代君主一覧
バーデン大公国の紋章
バーデン辺境伯(1073年 - 1190年)
バーデン=バーデン辺境伯(1190年 - 1515年)
バーデン=ハッハベルク辺境伯(1190年 - 1415年)
バーデン=ザウセンベルク辺境伯(1290年 - 1503年)
バーデン=バーデン辺境伯(1515年 - 1771年)
バーデン=ドゥルラハ辺境伯(1515年 - 1771年)
バーデン辺境伯(1771年 - 1803年)
バーデン選帝侯(1803年 - 1806年)
バーデン大公(1806年 - 1918年)
脚注