トーヨーアサヒ(欧字名:Toyo Asahi、1969年3月21日 - 不明)は、日本の競走馬、種牡馬[1]。主な勝ち鞍に1972年の京王杯オータムハンデキャップ、1973年のダイヤモンドステークス、日本経済賞、ステイヤーズステークス、1974年のアルゼンチンジョッキークラブカップ。
「花の47年組」の一頭である。430kg台の小柄な馬体が特徴の馬であったが、正確なラップを刻みながら黙々と走るところから、別名「走る精密機械」と呼ばれた。
経歴
父・セダンは1955年のフランス産馬で、イタリアでの競走馬時代、1958年前半にイタリアダービー・プリンチペアメデオ賞・イタリア大賞・ミラノ大賞典を勝利。この4競走を全て勝った最初のイタリア馬となり、種牡馬となってからもイタリアのリーディングサイヤーになった。1965年からは日本で供用され、本馬の他にもコーネルランサー・アイフル・スリージャイアンツなど活躍馬を次々輩出、リーディングトップ10に何度も入る素晴らしい活躍を見せた。
戦績
1971年7月の新潟でデビューし、2戦目の新馬戦は取り消したが、3戦目の未勝利戦で初勝利を挙げる。条件戦に昇級してからは堅実なレースぶりを見せ、9月に行われたあかね賞(100万下)こそ6着と掲示板を外したが、その後は1着1回・2着3回と4連続連対でシーズンを終える。1972年は鞍上を樋口弘から大江原哲にバトンタッチし、始動戦のヴァイオレットS(400万下)では9番人気と評価を落としたが、イシノヒカルの3着に頑張った。続く菜の花賞(400万下)は3番人気で5着。鞍上を樋口に戻すと、青葉賞(500万下)[注 1]で3勝目を挙げる。弥生賞・NHK杯は共に7着と敗れ、皐月賞・日本ダービーには参戦しなかった。秋に休み明け復帰戦の京王杯AHで古馬相手に重賞初制覇を挙げるが、その後はセントライト記念・オールカマー・カブトヤマ記念・クモハタ記念・ステイヤーズSと5連続で連対を外す。1973年は樋口から大江原に2度目の交代をするが、オープン10着・東京新聞杯14着と2連続惨敗。今度は小島太にバトンタッチし、初騎乗の中山記念で8着に盛り返すと、ダイヤモンドSではレコード勝ちで重賞2勝目を飾る[注 2]。その後は京王杯SHで逃げられず5着、アルゼンチンJCCではクリイワイの3着に逃げ粘ったが、安田記念はまた逃げられず15着と惨敗。日本経済賞は増沢末夫の騎乗で逃げ切って重賞3勝目を飾り、この頃から長距離の逃げ馬として評価されるようになる。鞍上を小島に戻した10月の地方招待では3着に入り、目黒記念(秋)は6着、初の大レースとなった天皇賞(秋)では7着だった。ステイヤーズSでは再び増沢の騎乗で断然の1番人気に支持され、レースではスタート良く飛び出したタカジョーを前に行かせず、超スローペースで逃げを打つ。2周目の3コーナーで郷原洋行騎乗のリュウトップがまくって出ると、これを合図に各馬が始動を開始。自身も温存していたスタミナを最後に爆発させ、49秒8ー36秒9とマイル並みの上がりで逃げ切って重賞4勝目を飾る。勝ち時計の3分49秒4は自身2度目のレコードタイム。1974年はAJCCで同じく始動戦のハイセイコー(9着)に先んじる7着、中山記念ではハイセイコーに力の違いを見せつけられたが、タケホープに1馬身の差を付けた2着。連覇を狙ったダイヤモンドSはトップハンデ57kgを背負って1番人気に推されたが、最軽量49kgのゴールドロックの2着に敗れる[注 3]。続くアルゼンチンJCCで重賞5勝目を飾り、6月には大井で行われた中央招待に参戦。レース当日はタケクマヒカルの2番人気に推されたが、初のダート戦で12頭中11着と大敗。芝に戻ってオープン戦7着の後、天皇賞(秋)14着、有馬記念9着を最後に現役を引退。
引退後
引退後は種牡馬となったが、目立った産駒を出せず、1985年9月に用途変更となる[3]。その後、1986年の『優駿』の読者コーナーにトーヨーアサヒの行方を問う投書があった[注 4]ことで一時的に預けられていた浦河町の牧場からオーナーである藤田利勝(トーヨークラブ代表)の経営する牧場へ移動[4]。草競馬にも出場していた[4]。少なくとも1997年(28歳時)までは存命で、同牧場に繋養されていた[4]が、死亡時期などは不明。
競走成績
- 1971年(7戦2勝)
- 1972年(11戦2勝)
- 1973年(12戦3勝)
- 1974年(8戦1勝)
- 1着 - アルゼンチンジョッキークラブカップ
- 2着 - 中山記念、ダイヤモンドステークス
血統表
脚注
注釈
出典
参考文献
- 『週刊競馬ブック』1997年9月8日号「覚えていますか64 明石 智子 トーヨーアサヒ・29歳 ~その後の走る精密機械~」
外部リンク