この項目では、アメリカ合衆国出身のファッションデザイナーについて説明しています。この人物が創業した企業については「トミーヒルフィガー 」をご覧ください。
トーマス・ジェイコブ・ヒルフィガー (Thomas Jacob Hilfiger、1951年 3月24日 - )は、アメリカ合衆国 ・ニューヨーク州 出身のファッションデザイナー であり、トミー・ヒルフィガー (Tommy Hilfiger )として知られる人物である。
高級衣料品を中心としたファッションブランドである「トミーヒルフィガー 」の創業者であり[ 注釈 1] 、1985年の創業以来、長年に渡り同社のチーフデザイナー(プリンシパルデザイナー)を務めている。
概要
ヒルフィガーはアメリカ合衆国を代表するファッションデザイナーの一人とされ[ W 1] [ W 2] 、「トミーヒルフィガー」ブランドも同国を代表するファッションブランドのひとつとみなされている[ W 3] 。
ヒルフィガーは1970年代に地元でファッション事業を起こし、デザインについては独学で学んだ[ W 4] 。1980年代にプレッピー 路線のメンズウェアとして、自身の名を冠した「トミーヒルフィガー 」ブランドを立ち上げ、ほどなく、同名の会社を起業した[ W 5] 。
同社は男性向けの高級衣料品分野で成功し、後に婦人服や香水など、さまざまな分野に商品を拡大していった[ W 5] 。ヒルフィガーは1989年にトミーヒルフィガー社を売却し、同社は2010年にPVH社 (英語版 ) の傘下企業となる[ W 6] [ W 7] 。ヒルフィガーは会社の売却後もトミーヒルフィガーに留まり、同社のプリンシパルデザイナー(Principal Designer)として活躍を続けている[ W 5] 。
略歴
ヒルフィガーはニューヨーク州 の小都市エルマイラ で育ち[ 注釈 2] 、1969年にエルマイラ・フリーアカデミー高校 (英語版 ) を卒業した。両親はヒルフィガーが大学に進学することを望んでいたが、ヒルフィガーは高校時代に起こした自らのビジネスを追求する道を選んだ[ W 8] [ 注釈 3] 。
初期のキャリア
「
デザインは今までしてきたどんなことよりも私を幸せにしました。デザインが私の人生になるだろうということを私はキャリアの初めの頃から知っていました。[ 1]
」
—トミー・ヒルフィガー
高校時代の1969年に衣料品を販売する商売を始め[ W 8] 、1971年に150ドルを開店資金として自身の衣料品店「ピープルズ・プレイス」(People's Place)をエルマイラで開業した[ W 9] 。ヒルフィガーは同店の衣料品はニューヨーク市 で買い付け[ W 5] 、ベルボトム 、ブラウス 、革ジャケット などを売っていたが、これらのデザインに不満を持ったことから、自らデザインをスケッチするようになり、独学でファッションデザインの経験を積んでいくことになる[ W 10] [ W 11] 。
ピープルズ・プレイスはチェーン展開に成功し、7店舗にまでその店舗数を増やしたが、1977年、ヒルフィガーが25歳の時に破産した[ W 10] [ W 8] 。これはヒルフィガーが商売の仕組みをよく理解していなかったという事情によるもので、ヒルフィガーにとってはその後の教訓となる[ W 8] [ W 12] 。
デザイナーとしての道に情熱を見出したヒルフィガーは更なるキャリアを積むため、1979年にニューヨーク市に移り住んだ[ W 5] 。そこでいくつかの異なるブランドのために働いた後、1979年に「トミーヒル」という名の会社を設立した。同社はジーンズを主に扱っていたジョルダッシュ (英語版 ) をクライアントのひとつとするようになり、ヒルフィガーはデニム の取扱量が拡大した。その買い付けのためもあって、1979年にインドを旅行し、この旅はヒルフィガーにインスピレーションをもたらした[ W 12] 。
トミーヒルフィガー創業
1984年、メンズウェアの展開を考えていたインド の実業家モーハン・マジャーニ (英語版 ) からの依頼で、男性向けスポーツウェア のデザインを手がけることになった[ W 5] [ 注釈 4] 。この際、マジャーニの支援を得て、自身のブランド「トミーヒルフィガー」を創設し、1985年には同名のトミーヒルフィガー社(Tommy Hilfiger Corporation)を創業した[ W 5] 。
1989年、経済的な問題を抱えたマジャーニに代わって、新たに香港の実業家であるサイラス・チョウ (英語版 ) からの財政的支援を得た[ W 13] 。この頃になるとヒルフィガーは自分が会社経営そのものには興味がないことに気付いていたため[ W 8] 、チョウと彼のパートナーでラルフ・ローレン社 (英語版 ) の元幹部であるローレンス・ストロール に会社を売却し、チョウとストロールによって新会社トミーヒルフィガー社(Tommy Hilfiger, Inc.)が設立された[ W 13] [ 注釈 5] 。これにより、経営は以前から任せていたジョエル・ホロヴィッツ(Joel Horowitz)が担い、マーケティングはストロール、調達はチョウがそれぞれ支えるという分担が生まれ、ヒルフィガー自身はファッションデザインに専念できる体制となった[ W 14] 。
(自分の名を冠したブランドを作りたいという思いは)まだそこにない何かを作りたいという思いから生まれました。私は当時のファッション市場にどういった製品があるのかをよく知っていましたし、それらとは異なる物を提供したかったんです。私の内面にある少年が、ということになるかもしれませんが、
私立学校(プレップスクール)の制服 であるとか、
アイビー・リーグ の伝統的な服装、それと
船乗り や
ジョック の服装といったものが大好きだったんです。それらのおなじみのデザインを取り入れた上で、もっとゆったりした感じにして、かつモダンでクールな服を作りたいと考えていました。(1985年のトミーヒルフィガー社の創業により)ようやく、自分で自然かつ良いと感じられる仕事をできるようになったわけです。私たちが作り上げてるブランドは私がどういう人間であるかということについてとても正直かつ忠実に語っているもので、それを生み出すことに苦労は全く感じません。
[ 1] — トミー・ヒルフィガー
トミーヒルフィガー社の発展
ヒルフィガー(2010年)
1989年以降、売り上げの規模は毎年倍増し[ W 8] 、1992年にはトミーヒルフィガー社は株式公開 を果たした[ W 13] 。1996年に同社は女性向け製品もラインナップに加えることとなる[ W 13] 。
デザイナーとしてのヒルフィガーの名声も高まり、1995年にはアメリカ・ファッションデザイナー評議会 (英語版 ) (CFDA)からメンズウェア・デザイナー・オブ・ザ・イヤーを授与された[ W 5] 。
トミーヒルフィガー社の規模は拡大を続け、2004年の時点で年間売上はおよそ18億ドルとなり、5,400人もの従業員を抱えるまでになる[ W 9] 。
2006年にトミーヒルフィガー社はエイパックス・パートナーズ (英語版 ) に買収され[ W 6] [ W 7] 、次いで、エイパックス社は2010年にトミーヒルフィガー社をPVC社に売却した[ W 6] [ W 7] 。ヒルフィガーはその後もトミーヒルフィガー社にプリンシパルデザイナーとして留まり、2021年の今日に至るまでデザインチームを率い続けている[ W 5] 。
デザインの特徴
初期のデザインは1960年代のカウンターカルチャー に基づいたものだったが、1980年代以降はクラシックなアメリカのニューイングランド スタイルに基づいたものへと変化していった。ヒルフィガーが確立させたこのデザインコンセプトをトミーヒルフィガー社は「クラシック アメリカン クール」と呼んでおり、東海岸 のクラシックなスタイルと西海岸 のひねりの利いたデザインを融合させたものだとしている[ W 5] [ W 11] 。
ヒルフィガーがデザインした服は、スタイリッシュでありながら、日常的に着やすく、快適で着回しもしやすいという様々な目的にかなうものだった。これにより、「トミーヒルフィガー」ブランドはラルフ・ローレン (英語版 ) 、カルバン・クライン (英語版 ) 、ノーティカ 、DKNY 、ダナ・キャラン といった他の高級衣料品ブランドと並び、1990年代のスポーツウェア の中で最も有名なブランドのひとつとなった[ 2] 。
「トミーヒルフィガー」は元々はプレッピー 路線(名門私立高校スタイル[ W 10] )のファンションブランドだが、1990年代には音楽産業との結びつきによりヒップホップ系ファッション の要素も取り入れていった[ W 15] 。
ヒルフィガーはカジュアルなブランドを手がける一方で、オートクチュール の依頼を受けることもある。また、音楽業界との結びつきから、ブリトニー・スピアーズ らのステージ衣装も手掛けた。
人物
ヒルフィガーはそのキャリアを通して、「F.A.M.E.」すなわち、ファッション(F ashion)、芸術(A rt)、音楽(M usic)、エンターテインメント(E ntertainment)の分野からインスピレーションを得ている[ W 5] 。そうした嗜好は、1990年代のトミーヒルフィガー社が音楽(M )やエンターテインメント(E )の分野とつながっていったことの要因ともなっている[ W 5] 。ファッションと著名人をブレンドさせる試みは当時としては新鮮なものであり、ヒルフィガーは自身の生み出したファッションをポップカルチャー を用いて印象的に宣伝した[ W 5] 。
芸術(A )について、ヒルフィガーはアンディ・ウォーホル のファンであり、その作品のいくつかを所有している[ W 16] 。もし夢のディナーに誰かを招待できるとしたらと聞かれて、ヒルフィガーはジョン・F・ケネディ とジャクリーン 夫妻、ミック・ジャガー の名とともに、ウォーホルの名を挙げている[ W 16] 。
慈善活動
1990年代以降、慈善活動に積極的に取り組んでいる[ W 17] 。
自身が設立したトミー・フィルガー・コーポレート・ファウンデーション(1995年設立)やトミーヒルフィガー社のTommyCaresを通して、セーブ・ザ・チルドレン 、世界自然保護基金 をはじめ、様々な活動を支援している[ W 17] [ W 9] 。自身の子が自閉症 であることから、自閉症治療の調査研究を行うオーティズム・スピークス (英語版 ) の支援も行っている[ W 17] [ W 9] 。
後進の発掘
次世代のファッションデザイナーを発掘する活動にも熱心に協力しており、CFDA/VOGUE ファッション・ファンドが主催した「Americans in France」キャンペーンを5期にわたって後援した[ W 9] 。この取り組みの中で、サイモン・スパー (英語版 ) 、ピーター・ソム (英語版 ) 、アルバトス・スワンポエル (英語版 ) 、ジョージ・エスキベル (英語版 ) といった若手デザイナーたちとコラボレーションを行った[ W 9] 。
家族
1953年3月24日、ニューヨーク州エルマイラにて、時計職人でドイツ系スイス人移民の父リチャードと、アイルランド移民 の子孫である母バージニアの間に生まれた。リチャードとバージニアの間には9子あり、ヒルフィガーはその第2子だった[ W 4] 。
1976年、ヒルフィガーはピープルズ・プレイスのイサカ 店の従業員だったスーザン・シロナ(Susan Cirona)と出会い、1980年に結婚し、2000年に離婚した[ W 18] 。スーザンとの間には4子(息子1人、娘3人)をもうけた[ W 19] [ W 18] 。
2008年にディー・オクレッポ (英語版 ) と再婚し[ W 9] [ W 18] 、ディーとの間に1子(男子)をもうけた[ W 19] [ W 18] 。
ディーの連れ子を含め、ヒルフィガーには7人の子供がいる[ W 19] [ W 8] 。最初の妻との間の1子と、ディーの連れ子である1子は自閉症スペクトラムを抱え[ W 19] [ W 20] 、これはヒルフィガーが自閉症についての慈善活動に取り組むことや[ W 9] 、トミーヒルフィガー社が障碍者 のニーズに対応した「トミーヒルフィガー・アダプティブ」というコレクションを設けることに影響を及ぼした[ W 21] [ W 20] 。
栄典・受賞
出演
脚注
注釈
^ 「Tommy Hilfiger」の日本語表記について、この記事で扱う人物の名前は「トミー・ヒルフィガー」、会社やブランドの名称は中黒 (・)を用いず「トミーヒルフィガー」(もしくは「トミー ヒルフィガー」)とする書き分けが一般的にされており、この記事でもそれに倣う。
^ 同じ州の最大都市であるニューヨーク市 からは300 ㎞以上離れている。
^ そのかたわら、エルマイラが属するシェマング郡 が運営する職業訓練プログラムであるGST協同教育サービス理事会には通った。
^ この場合の「スポーツウェア」とはファッションジャンルとしてのものを指し、「スポーツ に用いる服」という意味ではない。
^ その後もヒルフィガーは22.5%の株式を保有したが、会社の支配権は放棄した[ W 8] 。
出典
書籍
ウェブサイト
著作
著書
序文の寄稿のみ
参考資料
外部リンク