デューク・エリントン(Duke Ellington、本名:エドワード・ケネディ・"デューク"・エリントン(Edward Kennedy "Duke" Ellington)、1899年4月29日 - 1974年5月24日)は、アメリカ合衆国出身の作曲家、編曲家、ジャズ・ピアノ奏者、ジャズ・オーケストラ・リーダーである。
「デューク(公爵)」というニックネームは、子供の頃から自然な優雅さ、身嗜みを身に付けきちんとした服装をしていたことから、友人によって付けられた。
ジャズ・ファンからはスウィング・ジャズの帝王と称された。
生涯
1899年、ワシントンD.C.で生まれる。父親は、著名な白人医師ミドルトン・カスバート(Middleton Fuller Cuthbert)の執事であり、時々ホワイトハウスへの仕出し業も行っていた。小学生の頃からピアノを習い始め、ハイスクールでは校内のパーティでピアニストとして活躍していた。同時期に音楽教師から高度な作曲理論を学び(私の音楽に対する勉強は、GフラットとFシャープの違いを学んだことからはじまったと回想している)、1916年にピアニストとしてデビューした。
その後ニューヨークに進出し、1927年にニューヨーク市マンハッタン区ハーレムにて高級ナイトクラブ「コットン・クラブ」を経営していたオウニー・マドゥン[1]がデューク・エリントンとバンド契約に至る[2]。マドゥンの考え方は、コットン・クラブのお客は全員裕福な白人、演奏するのは黒人ジャズメンというものだった。
エリントンの楽団は、カウント・ベイシー、ベニー・グッドマン、グレン・ミラー、フレッチャー・ヘンダーソン、スタン・ケントンらの楽団とともに、一大スウィング・ブームを巻き起こした。彼は1930年代から第二次世界大戦後にかけて、「A列車で行こう」(作曲はビリー・ストレイホーン)や「キャラバン」など、ジャズのスタンダード曲を世に送り出した[3]。
1964年に新潟市で新潟地震が発生した際に日本公演を行っていた。地震の被害を知ったエリントンは次に予定されていたハワイ公演の予定をとり消して東京厚生年金会館にて震災に対する募金を募ったコンサートを開催した。その後、コンサートの純益である96万円が新潟市に贈られ、再来日した1966年には新潟市より国際親善名誉市民の称号が贈られた[4]。
1974年5月24日、肺癌と肺炎の合併症により75歳で死去、ニューヨーク・ブロンクスのウッドローン墓地に埋葬された。(マイルス・デイヴィスなども同じ墓地に埋葬されている)
エリントンが亡くなったのちも、エリントンの楽団は存続しており、2008年にも日本公演を行っている。2009年、コロンビア特別区から、エリントンとピアノをあしらった25セント記念硬貨が発行される。アフリカ系アメリカ人がアメリカの硬貨に描かれた最初の例となった。
受賞歴としては、映画『或る殺人』の音楽でグラミー賞3部門を獲得したほか、合計9回グラミー賞を獲得している。また、1969年にはその貢献が認められ、リチャード・ニクソン大統領より大統領自由勲章が授与され、1973年にはフランス政府よりレジオンドヌール勲章が叙勲された。
代表曲
ディスコグラフィ(一部)
出典/脚注
関連項目
書籍
外部リンク