ディエゴ・デ・サン・フランシスコ(Diego de San Francisco、1575年頃 - 没年不詳)は、江戸時代初期に来日したスペインのフランシスコ会宣教師である[1][2]。
経歴・人物
カスティーリャ地方のカスティーリャ=ラ・マンチャ州のシウダー・レアル県のメンブリージャ(英語版)に生まれる[2]。その後はフランシスコ会士となり[2]、1605年にスペインを離れ翌1606年スペイン領東インド(現在のフィリピン)に到着しマニラにて布教活動を行った[2]。1612年(慶長17年)に日本に派遣され来日し[1][2]、京都にて日本語を学ぶ[3]。1614年(慶長19年)にキリシタン追放令により長崎に送還されるが[注釈 1][3]、サン・フランシスコはこれを拒否し変装して京都に戻り逃亡した[2][3]。その後は江戸に入り[3]、同じフランシスコ会士であったルイス・ソテロが建てた教会堂附属癩病院に勤務する[2]。
しかし1615年(元和元年)に再度捕縛され投獄されたが[1][2]、スペイン貿易に携わった旗本の向井忠勝(将監)の斡旋により釈放されディエゴ・デ・サンタ・カタリナに随行する形でメキシコに追放処分となった[2][3]。1618年(元和4年)に遣外管区長としてマニラを経て長崎に来航し再来日を果たし[1][2]、1620年(元和6年)に江戸に約7ヵ月間滞在する[2][3]。その後は再度長崎に戻り[1][2]、1626年(寛永3年)から1629年(寛永6年)東北地方を中心に日本各地で布教活動を行った[1][2]。布教活動が終了した同年から3年間は大坂に滞在されたとみられているが[2]、以後の消息は不明である[1][2]。
著書
- 『ディエゴ・デ・サン・フランシスコ報告書』- 後に浦川和三郎によって翻訳[2]。
- 『ディエゴ・デ・サン・フランシスコ報告・書簡集』- 後に佐久間正によって翻訳[2]。
脚注
注釈
- ^ 朝日日本歴史人物事典では前年の1613年(慶長18年)、デジタル版 日本人名大辞典+Plusでは再度投獄された翌1615年(元和元年)と表記されている。
出典
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関連項目 | |
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